PSYCHO-PASS

□自我
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用事を終え、自分を認識しない街の雑踏をすり抜け、セーフティハウスへ足を運んだ。
歌舞伎町の一角。
軽く辺りを見回した後、鍵を開けて入り込む。



「貴方って本当に……、……、」



部屋の奥からは彼女の声がした。
歩みを進めると、向かい合わせに置かれたソファーに腰を据えた人間が2人。
背を向けた名無しさんが俯いて何やら唸っている。

こちらに気付いた男は軽く頷くように会釈し、目の前の盤面に視線を戻した。



「……んん」
「おい。帰って来たぞ」



呆れたように顎を上げて溜息混じりに言うが、女の耳には届いていない。



「話しかけないで」
「旦那が」
「うん」
「……聞いてないな」



穴が空くほど机上を睨みつけているのだろう、俯いた後頭部は上がらない。

コートを脱いだ槙島が彼女の後ろに立つ。
覗き込んでみると、想像通りチェスの最中だった。

ようやく名無しさんが拙い手付きで駒を持ち上げ、1つ動かす。



「はい」
「長考した割に、」
「うるさい」
「……趣のない……」



待たされて頬杖をついていた義眼の男はその後すぐに手を出した。



「チェック」
「あ」



置かれたそれを見て肩を震わせる。
盤面と彼の顔を交互に何度か見て、諦めたように脱力した。

ちら、とグソンが槙島を見上げ、軽く眉を上げて彼女に向き直る。



「賭けなくてよかったですね」
「もう1回しない?」
「……やめておきましょう。ではこれで」
「えー、お願い。もう1回」



腰を上げるグソンに縋るような声をかけるが、軽くあしらわれる。
去っていく彼の背は追わず、残された敗北の盤面に目を落とし、それをひっくり返して見つめた。



「んん…………ああ、そっか」



独り言をこぼしながら納得するようにふんふんと頷く。
習いたての遊びに興じ、負けて悔しがる様子はまるで幼い子どものようだった。

微笑ましい景色の筈だ。
だが、どこか黒い靄がかかったように映る。

腹の奥で渦巻いたそれが何なのか理解しきる前に腕が伸びた。



「名無しさん」
「ん?きゃっ」



呼ばれてソファーの背に戻ってきた彼女の頭を上から覗き込む。
ぽかんと呆けたその顔に後ろから両手を添えると、軽く持ち上げた。
急に真上を向かされ驚いた表情の名無しさん。



「ぁ、え?……どうしたの……?」
「目を見て」
「……うん?」



顔は上下噛み合わないまま、言われた通りに真っ直ぐ見据えてくる。
どこまでも黒い彼女の目を見つめながら、頬に触れたままの手を少しばかり上へ滑らせた。

目尻に伸びた睫毛に親指で触れると、反射で瞼が閉じられる。
すぐに再度開かれた目の中で、瞳が軽く開くのが見えた。

そのまま指を下瞼に添え、何の抵抗も示さない柔らかい肌をなぞる。
名無しさんはただ彼を見上げていた。
目には拒絶も不安も恐怖もない。じっと、静かに座っている。


このまま指を押し込めば、彼女の眼球を押し潰すのは容易だろう。
指先は瞼に入り込み、硬いゼラチンのような感触を脳に伝えて、押し込まれたそれは行き場を失って……



「潰したい?」
「……、」



名無しさんが口を開く。
何でもないような声色で、囁くように問う。

そうしたいならご自由にとでも言いたげな、無垢で穏やかな表情だ。
その目には、彼しか映っていない。

どうにも、くだらない欲求だったらしい。
一番厄介で、……嫉妬や痴情の絡れの源泉だ。



「……自己顕示欲、か」
「ぁうっ!?」



自嘲気味に槙島は微笑むと、唐突に彼女の鼻に噛み付いた。
びくんと名無しさんが肩を震わせ、振り払うように顔を背ける。

支えを失った手がソファーの背に落ちた。

鼻を押さえて身体ごと振り返る名無しさん。
膝立ちで乗り上げ、目を丸くしたまま訴える。



「何……なにっ、……もう!」



動揺しきって吃る彼女に、槙島は今度こそ声を上げて笑った。
























「欲望の方向を弄るだけで自由にコントロールできる駒ってのも手軽でいいじゃないか。
 人間の欲望とは何か?
 ……僕は最も厄介な欲望は自己顕示欲だと思う。嫉妬も痴情のもつれも源泉はそこだ」

「旦那は薄そうですね。それ」

「ゼロに近い……と、自負している。それが犯罪係数をコントロールする秘訣なのかな。
 ラッセルの幸福論を読んだ事は?」

「……ないですね」

「退屈の反対は快楽ではない。興奮だ。興奮するのなら、人間はそれが苦痛でも喜ぶ。
 わかるだろう?
 ……シビュラステムは退屈そのものなんだ」

「…………。始まったみたいです」

「いってらっしゃい」





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