三國無双

□断髪
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知らない女だと思った。

しかし、振り向いたその顔は確かに彼女。
双子か何かかとも思ったが、普通に後ろ姿が変わっただけだと分析する。

その美しい相貌を見間違う筈はない。
誰よりも多種の表情を見て、知り尽くしている彼だ。

そしてそんな鍾会の恋人である名無しさん。

その背中まであった髪がない。
いや、切られている。
肩に付かない程度にまで短く揃えられたそれは、以前と変わらないまま黒く艶めいていた。


「士季、おはよう」
「……」


彼が無視しても、名無しさんは顔色一つ変えないまま後ろについてきた。

少しは不安そうな顔をしても構わないだろうに日常茶飯事だとでも言いたいのか。
いや、正にそれか。


「名無しさん様、どうなされたのですか!?」
「気分だよ」

「名無しさん殿!誰に切られたのですか!?それがしが斬り殺――」
「ごめんね、自分で切ったよ」

「名無しさん様の髪が!うわああああああ」
「あ、ちょっ……あー」

「まぁ、短くされたのね。お似合いですわ」
「ありがとう」


すれ違う人々に呼び止められる彼女。
見目麗しく気さくで話も聞くことも上手な名無しさんは誰もに好かれる存在だ。
老若男女、彼女を嫌う者など聞いたことがない。

話題は勿論髪のこと。

どうでもいい世間話だ。
くだらない、と内心せせら笑う鍾会。

しかし。


「名無しさん様、失恋でもなされたのですか?」


という声には流石に眉を寄せた。


「そう見える?」
「どんな髪にされてもお綺麗ですわよ」
「ありがとう、嬉しい」


その返答にも彼は憤りを覚えた。

何故否定しない、と。

かっと頭が熱くなる。
腑が煮えくりかえったように渦巻いているようだ。

進路変更、自室へと向かった。
名無しさんもそれについていく。


「戻るの?」


鍾会はそれに答えない。
ただ進み、部屋の扉を開く。

そして名無しさんが同じようにそこへ入りきった瞬間、踵を返すと施錠した。


「…士季?」


重たく閉まった扉と鍵に、心持ち不安そうに彼女が鍾会を見上げ首を傾げる。
その可愛らしい仕草に彼は一瞬喉が詰まったが、構わず名無しさんに詰め寄った。

え、と軽く開いた唇。
驚愕に見開いた目。
頬にかかる短い髪。

名無しさん独特の甘い匂いが鼻をつく。


「っ」


後ずさる彼女を追い詰めた。
顔の真横の壁を殴るように叩くと、声も出さないままに名無しさんの肩が跳ねる。

何を怒っているのかとでも言いたげな目が、鍾会を見詰めたまま徐々に潤んでいった。

艶の増していくそれにぎくりとする。


「き、貴様!何故泣く」


優位なのは自分である癖に慌てふためく鍾会。

目の潤みは更に増し、遂に溜まった涙が一筋零れ落ちた。
それは彼女の美しい頬を滑り、顎を伝って着物を濡らす。


「だ、って、士季、何で怒っ、…うぅぅ」


名無しさんはこういう女だった。
飄々として、面倒事はのらりくらりとかわして生きている。
その癖いやそれ故に、打たれ弱い。

そして、いつもそれに振り回されるのは鍾会だ。


「馬鹿、泣くな!おい!…ああもう」


彼は壁から手を離し、その柔らかい頬を押し潰すように両手で挟む。
むぁーと名無しさんが呻いた。


「…この私のものを勝手に無くすな」
「ひぇ」
「それから。…何が失恋だ下らない」
「…ひゃい」


ぺちぺちと彼女が鍾会の手を叩く。
仕方なく離すと、抱きつかれて彼は驚いた。


「な…」


ぎゅううう、と強く腕をまわす名無しさん。
その柔らかい感触に戸惑った。

予想外の行動。


「士季〜…」


そして次の声色は、より予想の外だった。

名無しさんのこの声は以前聞いたことがある。

そう、あれは確か――、


「かわいいー」
「…は?」


――野良猫が迷い込んできたときだ。


「ッ、おい、!」


突如名無しさんが体を捻り、鍾会を壁に押し付けた。
抵抗する手を指ごと絡め取られる。

名無しさんは異様に器用であった。
素早く細かい業をやってのけるため、先手を取られてしまうとまず勝てない。

くそ、と悪態をつきながら力を込めるが、何故か振り解けない。
それどころか痛い。
しかし何もしなければどうも感じない。
動くなと身を持って言われているようだ。

抱きついたままの名無しさんを視界に入れたまま、以前の出来事を思い出していた。

野良猫に対する声色。
つまり名無しさんは今、猫に対して抱いた感情と同じものを鍾会に感じているということである。


「士季、」


呼ばれて見下ろせば、顔を上げた彼女と唇がぶつかった。
押し付けられるまま応じる。

こういうことをするつもりで連れ込んだものの、これでは立場がまるで逆だ。
彼としては腑に落ちない。


「士季、好きー」


しかし、どろどろに溶けたような口吻のあと。
鍾会の濡れた唇をぺろりと舐めてから崩れるように笑った名無しさんを見て、どうでもよくなる。

彼の手の拘束を解き、首に吸い付く彼女。
猫のようだと思いながら、随分早く指からすり抜けるようになった名無しさんの髪を梳いた。









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