三國無双
□逢引
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疲れた。どうにも疲れた。
妻といると心底気疲れする。と、司馬懿は思った。
確かに彼の妻である張春華は美しい。とにかく美しいが、とにかく恐ろしい。
毎度毎度妻の機嫌取りのように動き口を開く自分にも嫌気が指す。
そしてなにより情けなくなるし、疲れる。
過去の妻の激昂を思い出し、もうあんないたぶられ方はごめんだと司馬懿は震えた。
「はぁ……」
眉間に寄った皺を押さえ、大きく息をつく。
このままでは早死にしてしまう。
ただでさえ病気に強い方でないのだ。これ以上精神的に参っていたら、いつか本当に倒れてそのまま逝ってしまうやもしれない。
そうなる前に、だ。
「……」
妻が出掛けたこの好機、逃す訳にはいかなかった。
扉を押し込むと、竹簡の匂いがすっと入ってくる。
大抵はここにいる筈だ。
しかし、いない。見渡しても耳を澄ましても、返ってくるのは無。
手間をかけさせる、と煩わしさに眉を寄せた。
扉から手を離すと踵を返す。
やり場のない軽い憤りとこれからの期待に、自然と早足になるのを感じた。
☆
長い廊下を突き進み、目的の部屋の前に辿り着く。
こんこん、と扉を叩くと、はぁいと鈴の音のような声が返ってきた。
続いて、ぱたぱたという音。それが近づき、目の前の鉄の壁が動いた。
そろ、と名無しさんの片目が覗いた瞬間、司馬懿は扉の縁に手を掛けて一気に押し開く。
「きゃ、っ」
数歩踏み出して完全に部屋に入ってしまうと、後ろ手に閂を落としながら真ん丸に目を開いた彼女を見詰めた。
柔和な声色に表情。常にぼんやりしているかのように穏やかな女だ。
その癖知識は豊富で機転の利く頭脳を持っており、勘も鋭い。更に彼女の抜群とも言える美貌は、司馬懿が見初めてしまうほどだった。
「まぁ、…仲達様、びっくりしました」
「手間をかけさせてくれたな」
「もしかして書庫の方に?」
「フン」
すっと胸に支えていた固まりが溶けていくように軽くなる。
名無しさんと話すだけでこんなにも心が楽になると気づいたのは、かなり前のことだ。
そして彼女と関係を深めてか随分と経つ。からかいを含めた挨拶程度から、部屋に招き招かれるまでに進行した。
勿論、それなりのことだってある。
それは司馬懿の妻がいない頃を見計らい、繰り返されていた。
性急だと自分でも思いながら彼は、申し訳ありませんと笑いながら言う名無しさんの肩を掴んだ。
瞬間、察したように彼女の表情が変わる。軽く目を伏せてから、薄く色づいた顔で司馬懿を再度見上げた。
その可愛らしい仕草に胸を鷲掴まれたような気持ちになって、ぐいとそのまま肩を引き寄せる。
抵抗なく腕の中に収まった名無しさん。子兎を抱いているかのように、とくとくと鳴る心臓の音が伝わってきた。温かく柔らかい感触に、さっきまでの疲れや嫌気など忘れてしまう。
背中にまわした腕の力を強めながら、自分の肩口の下にある彼女の髪を撫でる。
くすぐったそうに笑った名無しさんが、司馬懿の着物を軽く掴んだ。
「今日は随分とお疲れのようですね」
「……ああ」
ちゃんと見通してくる辺り大方を知り尽くされている、と彼は思う。
以前など、自分でも気づかないうちに発症していた風邪を察され無理矢理に寝かされたことがある。大丈夫だとそれを断って仕事に戻った矢先にぶっ倒れた時には、名無しさんに感心したものだ。
顔をずらし、唇を名無しさんの髪に押し当てると、笑顔のまま彼女が司馬懿を見上げて軽く踵を上げた。
どちらからともなく重ねた唇は、彼の方が冷たい。
押し付け合うだけのそれがどろどろに溶けるまで、時間はそれほど要さなかった。
「ん、……ふぁ、」
名無しさんが眉を下げ、鼻にかかったような小さな声を上げる。
幾度となく回数を重ねても変わらないその反応が可愛らしいと司馬懿は思う。しかし身体は以前とは異なり、今では自分から求めてくるようになった。
奥へ逃げる舌を追い掛けたのも淡い記憶。ぐちぐちと粘着質な水の音と共に絡まるそれに口角が上がった。
背中にまわした手が、名無しさんの帯を捉える。するりと指をかけて緩めてやると、彼女が一層強く司馬懿の着物を掴んだ。
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