流氷上の天体観測
□pollito!
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ヘルサレムズ・ロットにはなんでもあり、なんでも起こる。
外の世界から見れば夢物語のように思えるかもしれんが、便利なものも理想的な現実などほとんどない。いや、ろくでもないものが多すぎて、それらしいものはひっそり隠れているにすぎない。
ではそのなんでもありで何でも起こるヘルサレムズ・ロットで、今日は何があったかというと──
やっぱりろくでもないことだった。
「……なんだこれは」
執務室に入ってきた僕が真っ先に目にしたのは、ローテーブルの上で丸くなっている少年。
猫や小型犬ならまだ許せるかもしれないが、部下の訳の分からない行儀の悪い行動を上司としてこのままにしておくわけにもいかない。だいたい、他の連中はどうしたんだ。
少年になんだかんだでくっついているザップはおろかクラウスの姿もないなんて、何かがおかしい。
「誰もいない上に少年がおかしい、ね」
この段階で嫌な予感がしなかったわけではないが、運悪くたまたま偶然にも反応が遅れた。
辺りを見回しているうちに起き上がった少年が、糸目をぱっちりと開いて僕をを捉えたんだ。
「お、少年。そこから降り……ん?」
じっと神々の義眼で見つめられると何もかも見透かされてるような落ち着かない気分になってしまうのだが、僕を見たままローテーブルから降りた少年は無言で軽い足取り近づいてくる。
いつもならあんな姿を見られたらローテーブルから落ちて慌てふためくのだろうが、さてこれはいったいどういうことだ。いや、どうしたっておかしすぎるだろう。
「どうした、少年」
声をかけると瞳は閉じたが、じっと人の顔を見たまま動かない。
と、スマホが鳴った。
「スティーブン」
『スティーブン、今どこかね!?』
なんだかやけに慌てているクラウスの声を訝しくは思ったが、執務室だと告げるとスマホの向こうでクラウスを始め複数の嘆きの声が聞こえた。
あー、お前ら全員知ってるってわけだ。
『レオがいたと思うのだが……』
「ああ、隣にいるよ。というか様子が変なんだが?」
『うむ、実は今のレオは雛なのだ』
「は?」
クラウスの言葉を真正面から受け入れられなかった。
雛? いや、俺の隣にいるのは雛でもひよこでもなくいつもと変わらない少年なんだが、雛ってどういうことだ。
困惑して声を出せない俺にクラウスは律儀に説明をしてくれたんだが……正直頭を抱えたね。
ヘルサレムズ・ロットのなんだかんだで自分を鳥の卵だと思い込んだレオナルドは、羽化の時を待ってローテーブルで丸まっていた。そして目覚めた時に最初に見たものを親だと思い込んでしまうのを警戒して、みんな一時的に避難しているのだとか。
お前ら、卵のまま放置してその後どうするつもりだったんだ。
「で、連絡が遅れて知らなかった僕がたった今、レオナルドに親に認識されてしまったわけか」
見下ろすとこてんと首を傾げるレオナルドに、溜息を吐くしかなかった。
とりあえず成長して巣立てるようになれば元に戻るらしいから、仕方なく少年を連れて行動することにしたんだが……仕事は卵が孵ろうと雛が後ろをついて来ようと待ってはくれない。そう、少年は親鳥と認識した僕の後ろをついて回っているんだ。
律儀に無言で後ろをついてくる少年に気が散りそうになって、どうにもペースが乱される。
犠牲者ができたことで他の連中も執務室に帰ってきたが、ザップは人の姿を見て腹を抱えて笑い出すので即行遣いに出し、人のイライラに当てられてツェッドは静かに自室に戻りチェインは音もなく姿を消した。
クラウスは心配そうにこちらをチラチラと見てくるが、助けてはくれない。
お前らそんなだから、少年に思いやりに欠けた変人なんて認識されるんだよ。なんで僕がそんなこと知っているかって? 気にするな。
「ギルベルトさん、こいつになにか餌でもやってくれませんか」
せめて仕事をしている間だけででも大人しくしておいてほしいと、餌付け作戦を思いついたのだが──
「食べないのか?」
目の前にケーキとコーヒーを出されても、少年は困った顔をして見上げてくる。縋るような表情に、これはもしかしなくてもそうなのだろうか。
「今のレオナルドさんは雛ですから、親鳥から餌を与えないと食べないのかもしれませんね」
「嘘……」
勘弁してくれ。
しかし今後のためにも確認をしておく必要があるだろう。成長するまで体内に蓄えた脂肪を消費しても十分にいけそうな気がしないでもないが、腹が減ったとピーピー鳴かれては敵わん。そういえば一度も鳴いてないな。
まぁいい。作戦失敗に肩を落としながらも僕は少年の隣に腰かけると、試しにフォークでケーキを一口大に切って少年の口に近づけた。するとこれまでは手を付けようとしなかったくせに、大きく口を開けてぱくりと頬張る。
あんまり美味しそうににこにこと笑うのだから、もう怒る気にもなれないじゃないか。
「おお、お召しになられましたな」
「ですねぇ」
喜ぶギルベルトさんはさておき、一口食べ終えたら調子に乗って口を開いた少年に俺の顔は引き攣る。これってつまりそういうことだよな?
渋々ともう一回ケーキを口に放り込むと、やっぱり嬉しそうな笑顔をこちらに向けてくる。こういうのは女子供なら調子に乗ってもう一回といいながらなくなるまで何度も放り込むんだろうが、生憎とこっちはガキに興味のない大人なんでな。
なんて思いながら、気がついたら全部食わせてた。だってこいつ、食うたびに笑うし口開けるしまた食ったら笑うし。ああ、親って大変だ。
彼が成鳥になるまでずっとこんな感じなんだろうか。気が重い。重いのに、嬉しそうに笑いながら食べる少年の笑顔を思い出すと胸の奥が温かい。
自分を利害できないと苦虫を噛み潰したような顔をしながら肩を落として深く溜息を吐いたら、膝の上に重みが加わった。
「おいおい……」
食い終わったら寝ちまうのかよ。
だが、すうすうと気持ちよさそうな寝息を立てて眠るレオナルドの無防備な姿を見ていると、まんざらでもない気分になってくる。
なんというか、俺みたいな裏社会を歩いてばかりの危険なだけの奴の膝で、こいつは安心しきった顔で寝てやがるのが、どうにも嬉しいんだよな。
親ってこんな気分なんだろうか。
気づけば少年にジャケットをかけ、その肩に手を添えている自分がいた。
「ヤバいな……こんなんじゃ、巣立った時が思いやられる」
ごく平凡な世界の、温かく優しい陽だまりに迷いこんでしまったかのような錯覚を覚える。
レオナルドの肩に手をかけたまま、反対側で頬杖をついて身体を傾けると、観葉植物に水やりをしているクラウスと目が合った。
あいつ、ずっと見てたな。
目が合ったことに驚きすぐに逸らしたが、その口許は笑っている。
見てないで助けろよ。これじゃ仕事ができやしない。
口には出さない文句が聞こえたのか、レオが身じろぐ。けれど起きる気はさらさらないらしいこいつは、いったいなんの夢を見ているのか、幸せそうに笑っていた。
それからたっぷり1時間。
爆睡していたレオナルドはソファとローテーブルの隙間に入って土下座し、僕は僕で痺れた脚のせいで動けなかった。
「すみませんすみませんすみません! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいー!」
ようするに、食って寝て成長したレオナルドは元に戻ったってわけ。
短い雛生活が終わって目を覚ましたら上司の膝枕なんて、そりゃ驚くよなぁ。
早い巣立ちを少し残念に思いながら苦笑する僕にレオはビクビク震えていて、まだ雛のように見える。
「別にいいさ。俺も少し休憩ができたし」
「うわー! 本当にすみません!」
ひたすらに謝るレオに、少しばかりの悪戯心と我儘が芽生えた。
「そこまで謝るんなら、これから仕事を手伝えよ。で、終わったら晩飯に付き合うこと」
予想外だったのだろう。正座はそのままだが、ぽかんと口を開けて僕を見上げるレオの青い瞳は全開だ。
それに気を良くした僕は不敵な笑みを浮かべつつ、ようやく痺れがなくなってきた足を動かして立ち上る。
見下ろせば、巣立ちを許されなかった成鳥が1羽。
「返事は、少年」
「は、はい! レオナルド・ウォッチ、誠心誠意尽くさせていただきます!」
うーん、これなら雛の方が可愛げがあったような気もするが、まあいいさ。
晩飯は何を食わせてやろうと考えながらデスクに向かう僕を、クラウスとギルベルトさんはどういうわけか楽しそうに見ていた。
end