流氷上の天体観測

□memoria!
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 好きな子ができた。
 同性で年下、人より多くのものが見える特殊な眼を持つ以外はいたって普通。
 けれどこのヘルサレムズ・ロットという度し難い街で生きていくだけのたくましさと、真っ直ぐな性根の持ち主。
 どうして好きになったかと問われれば、少々困ってしまう。
 気がついたら彼の姿を追っていた。仲間たちと騒ぐ時も一人静かに過ごしている時も、つい見てしまう。明るく朗らかで誰とでも分け隔てなく接する様子に口許が緩む。
 残念なことに怖くて近寄りがたい上司と思われているのか、他の仲間たちに比べて自分に対してだとその頻度はあまりに少ない。それでも貴重な瞬間は鼓動の高鳴りを聞かれやしないかと心配になってしまう。
 まるで初恋だと笑ってしまいたくなるような、一生に一度あるかないかといえるくらいとびきり幸せな恋をスティーブンはしていた。
 同時に、どれだけ浮ついた気持ちを持っていようと、叶うことは到底ありえないことも知っている。だからそっと隠し、いつ折れてもおかしくないこの心を温めて支えてくれればそれでいいと思っていた。
 なのに、面倒な外回りを終えて帰ってきた執務室の扉の隙間から聞こえた声にスティーブンは耳を疑う。
 声からして中にいるのはザップとK・K。外出するという話は聞いていないから、クラウスもいるかもしれない。そんな珍しい面子の雑談の話題は、自分と片想いの少年についてだった。

「絶対そうだと思うのよね」
「んな分けねぇでしょう。あの陰毛が、あの番頭に惚れちまってるなんて」

 やたらと『あの』を強調するザップに、2つの意味でそれはどういうことだと問い詰めたいが、足は鉛のように重くその場から動くことができない。
 レオナルドに対しては、一方的でまったく可能性のない片想いだと思っていた。
 男同士というだけで厄介だというのに、年齢差がありしかも同じ職場の上司と部下。さらにその職場が秘密結社となれば無理難題もいいところだろうに。

「私だってレオっちがよりにもよってあの腹黒に恋するなんて思いたくないわ。でもね、レオっち見てるとそうとしか思えないのよ」
「何があったんすか、姐さん」
「本当にさりげないんだけど、あいつを見る時のレオっちは切なさそうなのに幸せそうなのよ。この前の飲み会だってスカーフェイスが疲れてるの知ってか、飲みすぎてないか心配だってこっちに聞いてきたり話しかけるタイミングがつかめなくてしょんぼりしてたり、そりゃもう可愛かったのよ! あーヤダ、どうしてあんな腹黒男なのかしら!」

 そんなふうに見ていてくれていたなんて、まったく気づかなかった。レオナルドのことはよく見ていたはずなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。しかしK・Kがザップにぼやくほどだから、きっと間違いない。
 嬉しさに顔が緩み、口角が上がるのをとっさに手で覆って隠して、扉を開くことなく踵を返し歩き出す。
 早くレオナルドに会いたい。早く告白したい。君が好きだと伝えたい。
 慌てて取り出したスマホを落としそうになり、操作する指が震える。それでもなんとか画面に出した番号にコールして耳に当てた。
 今日は全休のはずだから、惰眠を貪っているかゲームに興じているか。もしかしたら、出かけているだろうか。早く出てくれと祈りを込めたスティーブンの期待は、『おかけになった電話は現在、電源が切れているか電波の届かないところに──』という冷たいアナウンスで砕かれた。

「どういうことだ?」

 ライブラからの緊急招集があるためにスマホの電源は構成員ならば原則として常に入れ、電波の届かない場所には極力行かないことなどがルールとして定められている。もちろん地下鉄など電波が入りにくい場所はあるが、スティーブンの直感がそうではないと告げていた。
 急いでアプリを起動し、レオナルドのスマホのGPSを探る。だが、ロストという結果に肝どころか頭の先からつま先まで急速に冷えていく。
 震える手に落ち着けと叱咤し、深呼吸。
 再び踵を返し踏み出した足元には、微かに冷気が残っていた。



 ──神々の義眼保有者レオナルド・ウォッチ失踪。
 秘密結社ライブラにとっても牙狩りにとっても大きな損失であるこの事態は、発覚した日からすでに1ヶ月を越えようとしていた。
 現時点で分かっていることは、GPSが最後に示していた場所に残されていた破壊されたスマホのデータからはレオナルドが自ら失踪することを匂わせるようなことはなにもなく、親しい者たちやバイト先もそれらしい予兆を感じなかったということ。ソニックは無事だったが、失踪直前は別行動をしていたらしい。
 他にもライブラの全構成員が総力を挙げて情報収集に向かったが、芳しい成果を得られることはなかった。

「レオ君はどこへ行ってしまったんでしょうね」

 他の事件などにも追われ疲労が募るメンバーが集う執務室で、ツェッドがぽつりと漏らした言葉に誰も答えることはできない。
 偶然が重なりライブラに入ったレオナルドは、牙狩りとして血界の眷属を狩ることを主命としているクラウスたちとは志が違う。けれども彼という存在はもうライブラになくてはならない、かけがえのないものになっていた。
 誰もが彼の安否を気遣いながら何も出来ないもどかしさに苛立っているのを必死に隠しているが、それももう限界に近い。

「はー、魚類は辛気臭くてヤになっちまう。こんなとこにいたらこっちが生臭くならぁ」

 静まり返る執務室に嫌気がさしたのか、ソファから立ち上がるザップをツェッドは睨みつけるが、それ以上言いあうこともなく顔を逸らす。普段ならばこんなに簡単に終わりはしないだろうに、彼らの中にその気すらなくなってしまったようだ。
 いつもならザップを貶すチェインもソファに腰かけたまま見向きもせず、ローテーブルで元気のないソニックへクッキーを渡している。クラウスもパソコンと向かい合ったまま動こうとしない。たったひと月の間に、ライブラは随分と様変わりしてしまった。
 そしてそのどこにもぶつけられないわだかまりの矛先は、黙々と己のデスクで書類の整理をする男に向けられた。

「ちょっと、スティーブン先生。なんでそんなに冷静なの? レオっちがいなくなってもう1ヶ月なのよ」

 胸の前で腕を組み、こちらを睨んでくるK・Kに仲間たちの目線が集まる。
 書類から顔を上げたスティーブンは次に仲間たちが自分に注目をすることが分かっていながらも、さして気にすることなく目線を再び書類に落とした。

「言われなくても分かっているよ。だがこうしている間にも、世界を破壊せんとその機会を虎視眈々と狙っている奴らはわんさかいるんだ。レオナルド1人だけに時間を割いてはいられない」

 半分本音で半分嘘だ。
 レオナルドの行方が分からないことを焦燥する心と、それでも世界の均衡を保つために活動しなくてはと考える理性の熾烈な争いはスティーブンを内側から蝕んでいる。
 出来ることなら仕事などかなぐり捨ててレオナルドを探しに行きたい。だが副官として皆に指示をする立場である自分が彼らのように動くこともできない。
 そしてこの苦しさを誤魔化すために自暴自棄になることもできないまま抑えつけた感情を表に出せば、冷たい奴だと罵られる自分の不甲斐なさが腹立たしい。

「だからって、どうしてそんなに冷静でいられるわけ?」
「僕が慌ててレオナルドが戻ってくるなら、いくらでも慌ててやるよ。しかし手がかりさえ掴めない者に神経をすり減らしたとしてなんになる」
「バッカじゃないの!? そんなこと聞いてるんじゃないわ。前々から思ってたけどね、あなたレオっちに冷たすぎやしない!?」

 腕を解いて怒鳴るK・Kをクラウスが宥めようと立ち上がり、去ろうとしていたザップやその場にいる者たちが一斉にざわつきだす。
 やむなく万年筆を置いて気持ちを切り換えようと息を吐いたのだが、これがさらに彼女の感情を逆なでしてしまった。

「なにそれ! 腹黒でいけ好かない奴だと思っていたけど、ここまで最低な奴だと思わなかったわ!」
「お、落ち着き給え、K・K」
「これが落ち着ける!?」

 止めようとしたクラウスに矛先が向けられたのをいいことに、スティーブンは椅子から立ち上る。
 ここにいてもこれ以上仕事は出来ないだろうし、仲間同士で争うのは非常に無益だ。

「ちょっとスカーフェイス、どこ行く気!?」
「外に出てくる」

 彼女らに背を向け、ザップの脇を擦り抜けて執務室を後にする。
 すれ違いざまにザップが本当にそれでいいのかと言いたげに顔を顰めていたが、いいはずがない。
 皆も薄々その可能性に気付いている。そう、レオナルドがすでにこの世にいない可能性に。誰も口に出さないのは、事実であって欲しくはないと願い、そして認めたくはないから必死に探し続けているのだ。時間が経てば経つほど現実味を帯びる最悪の結末に、誰もが焦っている。
 クラウスはリーダーとして捜査の打ち切りを宣言できる立場であるが、確たる証拠がない限り絶対にすることはしないだろう。だがそれはいつか秘密結社ライブラの足枷となる。ならば彼を言い包め宣言するのは自分の役目だ。
 そんな一生に一度の恋をした相手の行方が分からないまま、死亡宣告をしなくてはならないかもしれない重圧に誰よりも押し潰されようとしている男は、深い溜息を吐きながら逃げるように事務所を後にする。
 狭い路地を抜けてふらりと通りに出て、背を丸め当てもなく歩くスティーブンに気を止める者はいない。
 濃い霧に身を隠す何かを見ることが出来たのならば、彼の行方が分かるのだろうか。だが人並みの眼球しかもたないスティーブンの双眸に映るのは、向こう側が見渡せる程度の霧と騒々しくも世界的に有名だった街の名残がある、混沌とした風景を行き交う人類と異界人。
 慣れてしまえばごく当たり前の光景の中に異変を探す癖は、たとえ気分が滅入っていても無意識にしてしまう。そんな自分の職業病をせせら笑いながら、ふとレオナルドとよく似た背格好の少年をみつけては奥歯を噛みしめた。
 彼がいるのが当たり前になっていたから、こんな日が来るなんて想像していなかった。
 少し考えてみれば、可能性は常にあったはず。秘密結社ライブラの中心メンバーでありながら、眼がいいだけの一般人だ。情報漏洩には細心の注意を払っても、いつどこで漏れたなどはその時になってみないと分からない。そして義眼を移植した上位存在が気まぐれに彼と妹に目を返したとしても不思議ではないし、その時はきっとヘルサレムズ・ロットを去るだろう。クラウスと交わした契約上仕方のないことだ。

「……嫌だなぁ」

 レオナルドがいなくなった後、昔の自分たちに戻れるだろうか。
 以前の執務室ならば、仲間たちは仕事や用がある時以外はほとんど近づかない。静まり返った中で仕事ははかどるだろうが、その光景はあまりに寂しいと思う。
 どうしても仕事に結びつけてしまう自分に自嘲するが、思えばプライベートな場面でレオナルドと会ったことはほとんどなかった。もっと彼のことを知っておけばよかった。そうすれば失踪する前に予兆をみつけることも出来たかもしれないのに。
 今更な無駄なあがきだと分かっていても、後悔は荒波のように次々と押し寄せてスティーブンを呑み込んでいく。溺れないように必死に両腕で掻き分けもがかなくてはいけないのに、己の道を切り開くための足は冷たく重い後悔という名の水に囚われて、今にも立ち止まろうとしてしまっている。
 もう一度溜息を吐き、悔しくても泣くまいと眉間に力を込めた。
 前を向けと己に言い聞かせて顔を上げ──スティーブンは目を見張る。

「レオ……?」

 目の前の交差点のさらに先、路肩に止められた黒塗りの高級車の前で初老の男女と共にいる少年の姿をスティーブンが見間違えるはずはない。
 あちこちに跳ねた癖毛、大きな耳に横顔しか見えないが、柔和な微笑みに開いているのか分からない糸目。こんなに分かりやすい特徴のある、そしてスティーブンが心から欲している子を見間違えるはずがない。

「レオナルド!」

 弾かれるように走り出すが、信号が変わり乗用車や異界の乗り物に阻まれて一旦足を止めてしまう。
 なんとか隙を見て渡ろうと手をこまねいている間に、こちらの声が聞こえたのか行き交う車の隙間から見えたおそらく夫婦だろう男女は、酷く慌てた様子で何事かを話している。
 早く渡らなければと焦るうちにレオナルが一度だけこちらを見るも、スティーブンに気付くこともないまま男女と共に後部座席に乗り込んだ。
 静かに走り出した車には運転手が先に乗っていたのだろう、速やかに走り出していく。
 慌てることなく遠ざかる車のナンバーを記憶してようやく変わった信号を一睨みして歩き出すが、追いかけることを諦めてスマホを取り出すと、彼女はすぐに出てくれた。

『はい、皇』
「スティーブンだ。これから言うナンバーの車の持ち主を特定してほしい」

 車種とナンバーを告げれば、早急に調べると告げてチェインは電話を切る。彼女ならばすぐに仕事にかかり、特定してくれるだろう。
 ようやく掴んだ手がかりをここで失うわけにはいかない。これまで情けなく落ち込んでいた心を路肩に捨てたスティーブンは、双眸に鋭い光と静かな怒りを宿しながら事務所へと足を向けた。
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