流氷上の天体観測
□aguas termales!
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日常というものは、平穏かつ平和であるべきだ。
もっとも、この街ではそれこそ異常でしかないのだけれど。
だが時としてどれだけ非凡であろうとも、そんな平穏で平和で平凡な1日があったっていいじゃない。
願望? 上等だ。願いというのは人の欲でしかない。だが欲のない人間など、どこにいる。平和を望むのも他人の幸せを願うのも乱暴に言ってしまえば欲だ。
ならばその欲に忠実であることは悪いことではないだろう。
他者に害を加え、自分に返ってくるならば因果応報。人に阻まれるのであればそいつの欲と運が上回っているだけのこと。諦めろ。
ああ、話がずれちまったな。
要するにだ、僕が言いたいのは裏社会で色々と後ろめたいことをしている僕だって、平和な1日を願ったっていいじゃないってこと。
なんだけどなぁ。
事務所のテレビに映る巨大な間欠泉を眺めながら、僕はマグカップに口を付けた。
そう、間欠泉。公園のど真ん中から突然温泉が湧き出たんだとさ。ヘルサレムズ・ロットで温泉くらいじゃ驚きもしないし、事件性も一応なさそうだ。
温泉の成分くらいは調べておいた方がいいかと考えながら、首を左右に振るとバキバキと音がする。肩こりに効くといいのに。
ん? 着信か。
「スティーブン」
『レオナルドです。えーっと、大したことじゃなんですけど、公園から温泉が湧きました』
街中に突然温泉が湧いたのに、大したことじゃないってなぁ。
すっかりヘルサレムズ・ロットに馴染んだ少年に苦笑いしつつ、今テレビで見ていると答えれば、ほっとしたのか声が緩む。
『そうだったんすか。被害はなさそうなんで、このままバイトに行きますね』
「分かった。報告ご苦労さん」
『いえ。スティーブンさんもお疲れ様です』
電話はそれで切れてしまった。
口に出して言えないが、少年の年齢を考えると高めの声には癒し効果があるのか、脳が非常にリラックスする。凄いなぁ、少年。
どうしてこんなに効果があるのかは、自分でもちゃんと分かっているんだ。
分かっているが、言えるわけがない。13歳も年下の少……青年に恋をしているなんて、この僕が、秘密結社ライブラ副官スティーブン・A・スターフェイズが言えるか!? 言えるわけがない!
心に秘めた恋心というのは時に苦しく時に甘美だ。遅効性の毒のように身に染みていき、やがて狂気へと変わることを恐れながらも止めることは出来ない。
あぁ、なんと罪深いんだろう。
と、マグカップとスマホを手にして浸っていたって仕事はなくならない。
頭の中身をを切り換え、さっさと仕事に戻ることにした。
2日後。
温泉はヘルサレムズ・ロットの名所になっていた。
公園ひとつを丸々沈めてできたらしく、規模の大きい露天風呂状態だ。さすがにアイスランドのブルーラグーンのような規模はないが、大したものだろう。
調べたところ成分に問題はなく、それどころか肩こり腰痛打ち身に捻挫疲労回復等々、なんでもこいの万能温泉であることが判明したこともあって繁盛しているらしい。
ていうかここの所有権どうなってるんだ? ……まぁ、ヘルサレムズ・ロットだしなぁ。
なんて軽い気持ちでとりあえず流してはみるが、どこかの組織の資金源になっても困るからその辺りは一応調べておくか。
念のために現場も見ておくべきだろう。そう、これは仕事なんだ。
老若男女人類異界人問わず水着姿で寛ぐ露天風呂を前にして、同じく水着姿の俺は何度も自分に言い聞かせた。
いいじゃないか、温泉くらい。俺だってたまにはゆっくりしたいんだ!
日本の温泉は刺青は遠慮しろってことらしいけど、ここはそんなこと関係ない。なんて素晴らしいんだと密かに感動しつつ、ゆっくりと温泉に足をつける。ちょうどいい湯加減につま先からじわりと熱が伝わる。
静かに胸まで湯につかると、意外と深さがあることに驚いた。
俺の身長でこのくらいだから、女性や子供にはさぞ深いことだろう。辺りを見回すと同じ色の浮き輪をしている。なるほど、浮き輪のレンタルで稼いでいる奴がいるんだな。
ちゃんと許可とって……いや、それくらい構わんさ。心地よい風を感じながらたっぷりの湯につかり、湯気に顔を潤すこの状態なら、多少のことは見逃してやる。
「ビールいかがっすかー。キンキンに冷えたビールありまーす」
うっかり足を滑らせそうになった。
だってそうだろ、なんでここで少年の声が聞こえるんだ!? 耳まで湯に沈んで辺りを見回せば、離れた場所に確かに少年がいた。ビールのタンクを背負い腰にカップを備えたベルトを着け……まではいいんだけどな、水着にエプロンはちょっと卑猥じゃないか? だって水着にエプロンということは、その薄っぺらい布地が剥がれたら少年の慎まやかな胸を見放題……いや、俺は何を考えているんだ。
彼の上司として大人の男として、そんな目で少年を見るもんじゃない。
勤労少年が真面目に働いているというのに、俺は何をこんなところで寛いでいるんだ。そう、仕事に戻ろう、仕事に。でないと少年のビール売り姿をずっと目で追いかけてしまう。
「ママー、あそこに河童がいるー」
「しっ、見ちゃいけません」
おいおい、河童がいるってなんだ? この温泉にはそんなものまでいるのか?
顔を上げて注意深く見てみるが、子供の言うような河童らしき姿はいない。待てよ、河童って日本の妖怪だよな? ヘルサレムズ・ロットにいるのか?
「あ、スティーブンさん」
しまった。河童に気をとられ過ぎた。
落ち着け、落ち着くんだスティーブンと心の中で念じながら振り返れば、気の緩んだ笑顔の少年がいる。なんだかいつもより嬉しそうに見えるのは湯気のせいだろうか。
「スティーブンさんも来たんっすね」
「ん、ああ。様子を見がてらと思ってね。少年はバイト?」
「はい! 日雇いなんすけど、結構いいんですよ。ビールいかがです?」
「頼むよ」
仕事中なんだけど、1杯くらいいいか。
すまないクラウス。今日の僕は温泉と少年に骨抜きにされてしまったようだ。
「じゃあ、お注ぎしますねー」
しゃがむとエプロンから出た太腿が露わになり、俺の胸は歓喜に震える。
チップをはずまないとな、とご機嫌に思っていたら急に温泉が波打ちだし、地面が激しく揺れ出した。
「なな、なんですか!?」
「分からん。君は離れろ」
急いで温泉を出てみると、他の客たちも異変に気付いて慌てて温泉を逃げ出す。
そして元凶が姿を現した。
「……イカ?」
「イカだな」
源泉の辺りから出てきた白い触手は吸盤もあり、どうみてもイカの足に見える。本体の姿が見えないが、多分異界の何かしらと繋がって出てきた温泉に紛れて、こっちに姿を現したのだろう。ということは今頃異界の温泉は水量が減ってるのかもな。
「どうします?」
「どうするって、僕はこの格好だから血凍道は使えないぜ?」
「あー、靴」
別に血が出せればいいんだけど、なんとなく面倒臭いじゃない。
「HLPDが来るまで避難すれば?」
「そうっすね。って、ええ!?」
こちらに来る様子がないから呑気に見てたっていうのに、イカの足の1本が突然レオナルドに狙いを定めて襲ってきた。
まったくこいつは!
「レオナルド!」
気づいた瞬間には俺は地面の小石を踏みつけて足の裏に傷をつけ、技を放ち──イカの足ごと温泉を凍らせてしまっていた。
……やりすぎたよな、これ。
突然のスケートリンク誕生に人々は凍え、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
僕とレオナルドもどさくさに紛れてその場を後にした。
「僕のバイトぉ……」
服を着てそそくさと逃げてきたわけだけど、日雇いのバイトを失くした少年はめそめそと人目もはばからず嘆いている。
そんな姿が可愛いと思うわけなんだが、今回ばかりはちょっと罪悪感があった。
だってイカのせいとは言え、彼のバイト先を失くしちゃったのは僕なんだからさ。
「まぁまぁ。僕の家においで。温かい風呂に入って、美味い飯を一緒に食べようじゃないか」
「いいんですか?」
「もちろん」
下心はちょっとだけ。
なにより少年が僕の家に来てくれるなんて、こんな嬉しいことはないじゃない。
ご機嫌に笑ってやると、少年も気恥ずかしそうに微笑みを返してくれた。
ここから少しでも前に進めるといいんだけどなぁ。なんて考える僕の身体はすっかり軽くなっていた。
やはり僕にとって少年が最高の癒しというわけだ。彼さえいれば、どんな過酷な仕事でもきっと耐えられるだろう。
「というわけで、三食昼寝付きで住み込んでくれないか!」
「は? ……スティーブンさん、かなりお疲れです?」
最上の癒しを得る道は、果てしなく長いらしい。
end