流氷上の天体観測
□causa!
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「君が、好きだ」
人気のない事務所の廊下。
家に帰ろうとしたレオナルドは追いかけてきたスティーブンに突然腕を掴まれ、振り返りざまにそう言われた。
今まで予兆なんてどこにもなかった。
自分は部下で、彼は上司で。上と下、越えられない壁を越える気もなく、それがいい関係だと満足していた。
なのに、これはどういうことだろう。
「驚かせてすまない。だが、本気なんだ」
「は、はぁ……」
間抜けな返事しかできないのは、思考回路が完全に停止しているから。感情が追いつかない顔から表情も抜け落ちているが、彼は分かってくれただろうか。
名残惜しそうに離れた手が拳となり、微かに震えている。
「返事は、今じゃなくていいから。引き留めてすまなかった」
そう言い残して背中を向けたスティーブンは、呆然と見送るレオナルドを振り返ることなく執務室へ入っていき、後ろ手で扉を閉めた。
あまりに唐突な告白に残されたレオナルドはぽかんと口を大きく開いて扉を見つめていたが、ふと気付いて表情を戻す。
「スティーブンさん、俯いたまんまだったなぁ」
一度もこちらの顔を見ることなく、話すだけ話して去っていくなんて始めてだ。
あれはどうしてだろう。いくら告白だとしても、どうして真っ直ぐにこちらを見てくれなかったのだろう。
誰もいない廊下で小さく息を吐いたレオナルドは、答えをみつけられなかった。
執務室の扉をなんとか静かに閉めたスティーブンは、長い息を吐きながらその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「やっちまったなぁ……」
セットした髪を乱雑に掻き混ぜ、両手で顔を覆ってもう一度溜息を吐く。
告白してしまった。レオナルドに。
ひとり残った執務室で。誰にも邪魔されることなく仕事がはかどっていたところへ彼がやってきた。どうしたんだと問えば、バイトが早く終わったからこちらに顔を出したという。
仲のいいザップかツェッドをランチに誘いに来たのだろうということはなんとなく分かった。それが少し気に入らないなんて、まるで子供の嫉妬だ。
だから何か手伝えることはないかと尋ねてきたレオナルドへ、誰もいないし君にできる仕事はない。と言ってしまった。少々突き放すような言い方をしてしまったせいか、肩を落とした彼に胸が騒めいた。
ここで、一緒にランチを食べないかと誘えればよかったのに、タイミングを逃してしまったことを後悔してももう遅い。
お邪魔しました。なんて他人行儀にお辞儀をして去っていこうとするレオナルドに胸が締め付けられた。
小さな背中がどうしようもなく愛おしく、気が付けば廊下まで彼を追いかけて告白なんて柄でもないことをしてしまった自分を思い出し、また溜息が零れる。
どうしてあんな勢い任せなことをしてしまったのだろう。
レオナルドの顔をまともに見られず、しかも返事は今じゃなくていいなんて言って、逃げた。
「分かってるけどさぁ」
何かに背を押され、ちっぽけな勇気を振り絞って格好良くもなんともない告白の返事なんて分かり切っている。彼は同性で、異性愛者だ。男の自分に愛を告げられて嬉しいはずがない。しかも親しくない上司から言われただなんて、困るだけだろう。
やはり告白なんてしなければよかった。背中を押した何かを恨めしく思いながら手を下ろし、天井を見上げてまた溜息を吐く。
もうなかったことにはできない以上、返事を聞くまでは想いを告げられなかった今までよりもずっと怯えて生きていかなくてはならないのだろうか。
それは嫌だと我儘なことを考えながら、扉にこつりと頭をつけた。
「好きなんだ、あいつを」
目尻に、涙が浮かんだ。
晴天の霹靂という言葉を使うなら、今日しかない。
自宅に帰りベッドに倒れ込んだレオナルドは、少し埃っぽいベッドのシーツの洗い時を考えると同時にそんなことを考えていた。
途中で合流して一緒に返ってきたソニックが、どうしたと言わんばかりに頭を小さな手で叩いてくる。
正直自分でも分からない。
バイトが早く終わったから、なんとなくライブラ事務所に寄った。ザップかツェッドがいればランチに誘うかと思ったけれど、いたのはスティーブンただひとり。
最初は苦手意識があった上司も長く過ごすうちにそこそこ打ち解けたし、上司と部下の立場でいい具合に線引きも出来ていたと思う。少し怖いところもあるけれど、歳の離れた兄がいたらこんな感じだろうかと思うことだってあった。
だから何か手伝えることがないかと聞いたのも、ごく普通のことだったと思う。
なのに君にできる仕事はないよ。と目も合わせず返され、少し寂しかった。仕事ができる人に頼りにされたいなんておこがましいことは思わないけれど、お前如きにできることはないと拒絶されたような気分だったからだ。
打ち解けたと思っていたのは自分だけだと思い知らされ、ならばここにいても邪魔なだけになるしと、立ち去ろうと執務室を後にした。
気持ちを切り替えて、帰りに何かランチを食べようと考えていたらスティーブンは追いかけてきたのはいいとしよう。
だが、あろうことか告白してきたなんて誰が予想する。
「何なんだー!」
枕に顔を埋めて手足をばたつかせるレオナルドに驚き、ソニックが逃げていく。
まだ明るい時間で隣の住人は帰ってきていないらしく、騒音の苦情で壁は叩かれない。ならばとレオナルドは顔を上げて起き上がると、枕を抱きしめて仰向けに寝転がった。
「だぁぁぁぁぁ! す、好き……なんて照れるわー! つーか俺、男だぞ、オ・ト・コ! うぅぅぅ……明日からなんて顔してスティーブンさんに会えばいいんだよ……だー! 分かんねぇ!」
混乱した感情をありったけの声に乗せて吐き出しても、当然答えなんて浮かばない。枕を抱えたまま横向きになり、コンクリートそのままの壁に向かって溜息を吐いた。
こちらの混乱はともかく、告白をされた以上は返事をしなくてはならないから頭が痛い。
今までスティーブンをそういう目で見たことはなかったのだから、ごめんなさい、あなたの好意を受け取ることは出来ません。と言ってしまえばいい。典型的な断り方だが、スティーブンはできる男だし、あの外見ならきっと自分じゃなくてもっといい人をみつける。綺麗な女性か、巨漢で真摯なリーダーが彼の隣には似合いだ。いや、クラウスは相棒として、だけれど。
「……なんで、俺なんだろう」
そう、断るのは確定としても、そこが疑問だ。これまでそんな予兆も接点も何もなかった。
上司と部下。それだけだったはずだ。軽口とまではいかないまでも普通に会話はするが、友人のように親しくなったようには思っていない。
どこに自分を恋愛対象に見られる要因があったのだろうか。
平均よりかなり低い身長、童顔で糸目の冴えない顔立ち。幼い頃は目が大きくて女の子みたいだとよく言われたのが嫌で、滅多に開かないようにした。まさか義眼を移植されてその癖が役立つようになるなんて、思ってもみない。他には手足も短いし体重はジャンクフード生活が悪いのか軽くはないと思う。
というわけで、外見では好かれないと思う。では内面か。
「ない。絶対ない」
それこそクラウスのように紳士な振る舞いをすることもなければ、何事にも諦めず立ち向かう強靭な精神もない。ザップなら自由気ままで口ではなんだかんだと言いながらも、ライブラとクラウスを誇りにして荒事に立ち向かうだけの度胸がある。ツェッドは真面目で真摯で、勤勉。チェインは冷静でありながら女性らしさを忘れない。ザップの前では素が出ているけれど、あれはいがみ合っていても気が合うからだろうか。K・Kのように真っ直ぐに物怖じなく意見することも出来なければ、ギルベルトのように気配りも出来ない。
ミシェーラのような、勇気も気高さもない。
考えれば考えるほど、泣きたくなってきた。現に目尻に涙が浮かび、ありえないと袖で強引に拭う。けれど鼻の奥がツンとする。
どうして、こんなのを好きだというんだろう。
仕事をする気をなくしたスティーブンは、ふらりと街を歩いていた。
自ら招いた失態とはいえ、この年になっても失恋は辛い。いや、こんなに苦しい失恋は初めてだ。
自惚れてるんじゃないとK・Kには叱られそうだが、自分の外見の使い方はよく分かっている。女性の扱いも心証も、こちらの思惑通りにできる自信がある。だから恋なんて気楽なものだと思っていた。甘い菓子のように気まぐれにつまみ、ワインのように酔いしれて楽しむ、ひと時の酔狂。気休めに十分なお遊び。
なのに、レオナルドへそんな気持ちを抱くことはなかった。
きっかけは思い出したくないが、間違いなくあのホームパーティーの日だろう。
裏社会とは全く関係のない友人だと思っていた者たちに裏切られ、全てを闇に送ったあの日。浮かれていたことに落ち込みながら、夜の街へ出るとヴェデッドと彼女の子供たちに会った。
無邪気な子供たちとヴェデッドに救われたと思っていたら、今度はスクーターに乗ったレオナルドと謎のポーズで後部座席に辛うじて座るザップがやってきた。
あの時は、また馬鹿な部下たちが何かをやっている程度にしか見ていなかったように思う。ザップが探していた猫をヴェデッドの娘がもっていて、ひと悶着あったがそれもいつものことだと眺めていた。
ふと、レオナルドの顔が腫れていることに気付き、そのことをなんとなく問うと、「ちょっとドジっちゃって」と苦笑するに留めて理由を言おうとはしない。彼はいつもそうだ。カツアゲにあっても暴動に巻き込まれても、たいして騒ぐこともなければ助けを求めることもない。
だからこの時も理由を聞かず、「男前になったんじゃない」なんて軽口を叩いた。
何も答えず寂しげに笑う彼に、これは失敗したと気付いたのは後の祭り。早く猫を届けないと時間がない、と騒ぐザップと共に去っていく彼の小さな背中を見つめて、傷の手当てくらいしてやればよかったと思った。
ヴェデッドも去ってひとり残されると、騒がしかったせいかさっきまでとは違う寂しさが募る。ふと、レオナルドの屈託のない、気の緩んだ笑みが脳裏に浮かんだ。
彼ならきっと、ヴェデッドの特製ローストビーフを口いっぱいに頬張って幸せそうに食べてくれただろう。美味い美味いと騒いで、皿を空っぽにしてこちらを呆れさせてくれそうだ。やはり引き留めれば良かったと思ったあの瞬間から、自分の中で何かが変わった。
翌日から、気が付けばレオナルドの姿を無意識に探し、彼をみつけるとつい意識がそちらに向いてしまう。ザップたちと仲良く話しているのを遠くから見ているとなんとなくいい気分じゃないし、逆に自分に話しかけてくる、少し恐縮した彼を見ると浮足立ってしまいそうで何度も気を引き締めた。
そんな自分のおかしな様子に、家に帰ると落ち込む日々。独りで住むには広すぎる家の中で、いったい自分はどうしたのだと懊悩しては答えを出せないままだった。
これが恋だと気付いたのは、いつだっただろうか。