夢物語

□星の川が流れる空へ
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生温い空気が湿り気を含んで肌を纏う夜だった。

一人、耳鳴りがする程静かな社長室。

窓の外は霧と雲で生憎星は見られず、それが彼らには少しばかり可哀想だと思った。

「ねえねえ何を書いたんだい?」
「もう、さっきから太宰さんうるさい。みんなの短冊盗み見してる暇があったら飾り付け手伝ってください。」
「え〜、つれないなぁ〜。」

湿っぽい廊下を歩く。
零れ落ちている灯りが足元をぼんやり染めた。
調査員が集う部屋の扉の向こう、事務方も一日の職務を終え皆ここに集まっているのだろう、普段よりそこは随分賑わい、声が筒抜けであった。

「背の高い人がサボると一向に進まないんですけど?七夕飾り。」
「国木田君はぁ?」
「だから買い出しだってさっきも言ったじゃありませんか。」
「仕方ないねえ。・・よっこいせ、と。読ませてくれたら一番高い場所へ結んであげ───。」
「潤くーん脚立ちょーだーい。」


七月七日より少し前。
若者達が集い、ああだこうだと言いながら七夕飾りの準備をしていた。
ここ数日の、賑やかな夜。
就業中は争い事で負傷も多い調査員達は、誰が指し示すでも無くいつの間にか自主的に記念日や行事を祝うようになり、比例するように職務面でも良い連携を取れるまでになっていた。

今や私は結び付けられる短冊のように飾りに過ぎぬ立場。
主軸として成長する社員はこれで言うならば笹の葉だ。
時折印籠のように偉そうな言葉をしたためる事は在れど、私が前線に出ることはまず無くなった。
それでも社員達は私の事を疎ましく思わずそこに居てくれている、はずなのだが。

「社長っ、!」
「・・・。」

扉が開くまで珍しく気づかずに居た。驚いた顔つきで国木田が目の前に立っている。
この短い間に社に戻ったらしいが、何か用事でもあるのか調査員の部屋からこちらへ出るところだったのだろう、至近距離で構える私の登場にも素っ頓狂な声は上げず姿勢を正す。
生真面目が体現された容姿は昔と変わらず、乱歩、与謝野に続きすっかり社の古株で、本人以外は皆分かっている事だが私の後継者だ。
そういう部分が恐らくは私に似ているのだと誰かが言っていたが。
扉の前で立ち尽くしていたのを、何か誤解して受け取ったようだった。

「申し訳ありません、注意します。」
「構わぬ。」

そうでは無い。
言って、国木田とすれ違い扉を潜った。
蛍光灯の眩しさが鮮やかな緑を照らす中、皆の視線が美しい程一斉にこちらに集まる。
口々に「社長」と溢し、その手は、口は、動きを止めた。

「・・続けて構わん。」

などと偉そうに言うが、実際のところは注目される痛痒さからだった。
無数の瞳が瞬き、我に返る。
ゆっくりと社員同士顔を見合わせ、幾分静かに七夕飾りは再開された。
何となく緩まぬ空気の中、然しながら暫くするとざわめきは取り戻され、各々が持ち場で仕事をし、私への注目も次第に薄れていった。

その中に一人、危なっかしい鉄砲玉を見つけたのは、宵闇を切り取る窓硝子にその様子が映ったからだ。

「何をしている。」
「わっ、社長、」
「危ないだろう。」

両足の開いた脚立の上。段に足を掛け、頂上で跨がるようにして若い娘が短冊を飾ろうと体を伸ばしていた。
部屋の外まで太宰への不満が聞こえていた、中々肝の据わった娘である。

「いえ大丈夫です。社長は座ってお茶でも飲んでてください。あっ、お茶淹れます?」

・・そうでは無くてだな。
言っても聞かぬだろうと思ったが私は手を差し伸べた。

「貸してみよ。」
「えっ?これ?嫌です。」
「・・・一人では危険だと言っている。」
「いや、平気ですよ、大して高くないですし。」

ぬ・・・。

「しかしだな、・・」

なかなかの頑固者である。
短冊を結わい付けてやろうと手を差し出すのに靡きもしない。
しかし難しいのは娘相手という事。女だからと言って無理に止めさせるのは差別的に感じるだろうし、かと言って無茶をさせて怪我でもすれば親御さんに何と説明すれば良いか。
引かぬ私の手をその娘は気を抜かぬ様子で凝視していた。
私は一つ息を吐き、差し出した手を脚立へ移動させ──ようとしたところで娘が突然脚立を駆け降りた。

突拍子もないとはこの事。
声も出ぬ間であった。

「じゃ、お願いします。」

しれっとした様子で突きつけられた短冊は深緑色。
紙面上の小さな穴に通された糸が赤いせいか、何か別の季節行事を思わせた。

「社長、一番高いところにお願いします。」
「・・・む。」

下から注文が飛んできた。
こういった祭には有りがちだが、何ゆえ高い場所へ結いたがるものか。
聞いたところで明確な理由等無いのだろうが。

「此処で良いのか。」
「はいっ、とっても良い感じです。」

どうも、と。
小柄な体が折り畳まれる。
そのまま後頭部を見せ同僚の元へ小走りする様子が矢張り危なっかしく思えた。

また一人取り残された私は、笹の葉へ寄ってきた他の社員に場所をあけた。
見渡せば、つまらなさそうに回転椅子に乗った乱歩が端に映る。そこへ後輩達が群がり、何やら言い争っているかと思えば椅子ごと転がされていった。もう私が構わずとも年下の者達と上手くやっているらしい。

長い十二年。
今後も流れゆく時の中で出会いは様々あるのだろう。
忙しなく駆けていったとも言えようが。

さて何処まで見届けられるか。
そんな事を考えていた。

「おやおやぁ?こりゃあ傑作だねェ。」

死角から声がした。
与謝野が天井でも見るように首を倒している。
蛍光灯の光が髪飾りに反射し、一瞬の内に目の中を駆けていった。

「愛されてるじゃぁないか。」

・・よく分からぬ。
無言で視線を合わせ続けると、根負けしたのは与謝野の方だった。
諦めを含んだような笑みと共に瞼が落ちる。

良い酒が呑めそうだよと言い置いて去る与謝野の、先程まで居た位置に立ってみた。
結わえたばかりの短冊が、冷房機器からの風にひらひらと回転している。


──社長が健康で、できるだけ長く社員を見守っていてくれますように。


紐ばかり注視していて気付いていなかったが、そんなような事が書かれていた。
鉄砲玉のようなあの娘は何処へ行ったのか、最早姿は無く。


私は矢張りまた一人取り残され、然し今はそれ程寂しさは無かった。




--*七夕×社長*--



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