夢物語

□えりあし(中也)
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冬の空気は、午後が始まったばかりというのにまるで夕方のような柔い色に照らされていた。
まるで錯覚。
わたしは袖を捲って腕時計の文字盤を確かめた。
約束の時間まで、あと30分。
ワンルームに立て掛けた細長い全身鏡に、深紅のコートが映った。

編み上げのショートブーツが、午前中の雨の跡を踏んでいく。
マフラーはもこもこするから好きじゃないけど、今日はそれを我慢してでも巻くべきだったかもしれない。
跳ねるような早歩きに合わせて、ほわほわと白い息が空に消えていく。
水溜まりに映っているのは清々しい薄いブルーをした空の色。
太陽光は僅かにオレンジ色を含んで、それがどこか眠気を誘う。
図書館までは15分。
腕にかけた紺色の紙袋の中で、ビンがガサガサ動いていた。

自動ドアが開いて、わたしの纏った冷気と、入れ違いで出てきた人の暖かい空気が交わった。
壁にかかった館内の案内図。
文豪のコーナーと言ったって、幅広すぎるけど。
巨大迷路じゃあるまいし、歩けばいいか。
得意の楽観でもって探し始めた。
階段を上がると防犯のための感知器があって、その奥は書籍の海、静寂の昼下がり。
窓ガラスからは暖かな陽がさしこみ、本棚にふわりとベールがかかっていた。

膨大な書籍たちは規則的に並ぶ棚に全てきっちりとおさめられ、古い紙のにおいがしていた。
その並びの中に所々大きな木の机があり、背凭れの無い低い丸椅子には何人かが座って本を読んでいた。
わたしが前を通ると咳払いが聞こえる。紙袋がうるさいのかもしれない。
一体どこに居るんだろう、中也さん。
いくつかの机を通りすぎた時だった。
そこは6人掛けの机で、書籍を置くことを想定して広く作られているようだった。
そのだだっ広い机の上に、1人の青年。
ぐったり、伸ばした腕の上に頭を乗せ、顔はこちらを向けて。
青年だと言い切れたのは中也さんだと知っているからで、普段周囲をピリピリと警戒している目が閉じられ眠っているその顔は、年のわりに幼くて学生のようにも見えた。
畳まれた紺色のコート。
その上に、ちょこんと帽子が乗っていた。
コーデュロイの生地に、冬を感じる。

(気持ち良さそう。)

わたしは隣に座って、眠気を移されそうなその寝顔を眺めた。
起こすのはしのびない。
でも約束は破りたくない。
柔らかそうなニットにかかった、跳ねる襟足をいつも見ていた。
あなたの傍についた時からいつも。
これが天と地ほどの差があるふたりなら、きっとこの話の作者は女の子に告白を促すだろう。
もっともっと、遠い存在だったなら気持ちを伝えるのも簡単だろうに。
頭を机に落として、中也さんと向き合った。
ドキドキする。
わたしのこと、どう思ってるだろう。
大きな仕事をやり遂げて褒美をねだった、我が儘な部下?

「中也さん。」

これ以上寝顔を見ていたら、触れたくなってしまう。
わたしは声をかけた。
反応は無かった。
肩に触れるのも震えるくらい好きだ。
揺れる指先が触れる前に、足元に置いていた紙袋が倒れた。
ビンが、鈍い音を立てる。

「すみませっ、」

眉が寄って、中也さんの目がうっすら開いた。
何度か瞬きをすると、頭が持ち上がった。
腕が天井へ向かい、うにゃぁ、と伸びる。
欠伸を終えた潤んだ瞳が、のんびりとこちらを認識した。

「やっと来たのか。」

薄目で睨んで。
そんなに待たせてしまったのか。
わたしは腕時計を見た。

「でも、約束は14時って。」

時間厳守はマフィアもそうだ。
わたしは文字盤をかざしてみせた。

「13時55分。お前が言い出したことだろうが。」

寝起きでも頭は冴えているらしい。
針を正確に読んで中也さんは言った。

「す、すみません。」
「別にいいけどよ。」

わたしが謝ると、責めていた横顔に僅かな罪悪の色が塗られた。
それ以上何を喋れば良いのかも分からずに、わたしは沈黙した。
勢いとはいえ自分からねだっておいて、半日も保たない気がする。

「で。どうすんだよ。」

ため息がひとつ出たあと、中也さんは帽子を乗っけながらそう言った。
今日はお前が主体なんだからついていくだけだぞ、と。
ああそうか、今日は仕事みたいにわたしがついていくんじゃないんだと思った。
私服で、ふたりで、まるでデートじゃないかと死ぬほどに照れていた昨日の夜が恥ずかしくすらなる。
わたしが、仕事の延長に敷物を置いただけだ。
それに付き合わせてしまっている事実に今さら気づくなんて。

「あの、やっぱり ───」
「どっか行きてぇのか、それともなんか食いてぇのか。」
「ぇと、あ。」

膝に乗っかった鞄をぎゅっとしていると、中也さんは立ち上がってわたしを見下ろした。
いつもの構図に、従属意識が反射的にわたしを答えさせる。

「えっとじゃあ、うーんと、水族館。」

目をうろうろさせたあとわたしは下を向いて言った。
悩んでたのは行き先じゃない。
それを伝えることだ。
中也さんの不満が駄々漏れてくる。

「この寒みぃのに水かよ。」
「えっとほら、ひとりだと行きにくいので。」

行き先を悩んでいたのはとうに前のことで、言い訳をちゃんと用意したのもその頃で。
中也さんの顔に、傾いてきた太陽の光が当たった。
二重ガラスの中に、自動でブラインドがおりてくる。
手袋越しにわたしの手が掴まれた。

「!?」
「ぐだぐだしてる間に終わんぞ、水族館。」

人の時計を見て、中也さんはそう言った。
突然のことにぐるぐるしてるわたしを引っ張って、冷えた空気の中へ。
真冬の空の下、熱くってしょうがないわたしは腕にぶら下げた紙袋の、赤ワインのビンを俯いて眺めながら歩いた。
まだ、片手は掴まれたままで。

時計を見たかっただけじゃないのかな。
期待してもいいのかな。

このワインを、一緒に飲みたいですって、まだ一緒にいたいですって、言えるだろうか。

顔を上げると、ずっと追い続けていた跳ねる襟足がすぐ傍にあった。


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