夢物語

□必要の世界 (ポオ)
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暖かな陽が注ぐ正午であった。
海の見える丘にある公園の、眺めの良い場所に等間隔に並んだ二人掛けの椅子。
真冬の晴天は千切れそうな雲がうっすらと一枚たなびき、それ以外には何もなく、水色の絵の具で染めたような空。
遠くには長い橋がどこまでも続き、その下には公園の名称にあるとおり、広く漂う海が見えていた。

「ふぅ。」

我輩はそこで一人、ぽつんと座ってただ膝の上の一点を見つめていた。
周りに人は無し。
我輩の黒い衣服がますます浮きそうなほどであった。
というのもこの寒波に覆われた国は今、花は咲かず鳥も鳴かず、つまりは殺風景。
最大要因としてはやはりこの凍りそうな冷たさであろうが、ひゅう、と吹き込んだ風はやはり手元を固く冷やし、そして押さえつけている紙の束がかさかさと音を立てた。

「……残念なのである。」

膝にどっしりと重みをかけているのは自分の原稿であった。
直しだらけの、殴り書きのような文字の羅列。
それらは今や塵同然となってしまったのだが思い切って捨てることも出来ない。
今朝のことである。
大きなタワーの低層階に入った出版社。
持参した原稿を心躍らせて渡したのであるが。
この世の中は皆、どうやら乱歩くんと同じほどの推理力を持っているらしい。
読まずともつまらぬと分かる、と。
何故分かるのであろうか。

「どちらにせよ……。」

必要とされなかったのである。
であれば。

「あっ、」

ひと思いに真っ二つに破ろうと手をかけ、しかしながら百枚単位の用紙がまとめて破けるはずもない。
我輩の横着に耐えきれなかった用紙がひらり、何枚か群れを抜け出し地を滑った。
腰をかがめ、無様な姿で用紙を追う。
今日は悲惨な日である。
──と、涙に緩くぼやけた視界で、ぴたりと紙が縫い留められた。
見えたのは、茶色い革靴。
ふっと上を向くと、そこには黒い髪をさらさらと風になびかせた少女の冷たい視線があった。

「……。」

ぼんやりと、我輩はその風貌に見入ってしまった。
少女が眉をひそめる。
地面と靴底が音を立て、小さな足が一歩下がった。

「すす、すまないのである。」
「……。」

いつの間に来たのだろうか。
再び滑り出しそうになった紙を拾い上げて、バラバラになってしまった原稿を椅子の上でなんとか纏める。
何度も直したり触ったりしたせいで角が揃わないそれを半ば無理やりに封筒へ押しこみ、我輩はそろりと後ろを振り返る。
なんと、少女が思ったよりもだいぶ近くに佇んでいた。
わ、と情けない悲鳴が上がる。
訝しむような表情は、ますます酷くなっていた。

「これ。」
「えっ、あ、え、ああ、ありがとうなのである。」
「……。」

近くに立っていたのは、拾いそびれた紙を渡すためだったらしい。
脱走した最初の一頁を、封筒の中に押し込む。
我輩、何をやってるのであろうか。
帰ろうと、一歩踏み出した時であった。

「おじさん、小説を書くの?」
「えっ!お、おじ、」

何故だろうか。
少女が話しかけてきたのだった。
我輩、おしゃべりは得意ではないのであるが。
しかしそんなことよりも訂正しなければならないことがあった。

「わ、我輩おじさんではない、のである……。」

まだ…。
小さく弱く、そう付け足した。
少女は首を傾ける。

「……じゃあ、お兄さん。」
「いや、その、」

我輩はポオである。
しゃきっと立って言うと、少女の頭が後ろへいく。
見上げる無感情な目がどこかで見たことあるような無いような。
黒い髪に、学生服。
十三歳くらいであろうか?

「それはわかったけど、質問の答えは?」
「え?あ、えっと、何であったか…。」
「小説、書くの?」
「ああ、そうであったな。書くのである。というか、書いたのである。……実はもう、塵になってしまったのだが。」

ぎゅう、と。柔い封筒が腕に潰される。
少女はまたのんびりと首を横に倒した。
一歩、距離を詰めて。
黒目を真っ直ぐに向けて、何故、と問いかけた。

「出版社に持っていったのであるが、駄目だと追い返されて。読まずとも駄文であることは分かるのだと。」

だから塵なのである。
そう説明すると、少女は目をそらし、今度は我輩の腹のあたりをじっと見ていた。
不思議な子供だ。
つられるように抱えた封筒を見下ろしていると、少女はまた話をし始めた。

「どうして読まなくても分かるの。」
「それは……ううむ、我輩には分からないのである。他の人にはそういう能力があるのやもしれぬ。」
「……へえ。」
「?ええと、その……君は、一体?」

何故我輩にそんなことを?
聞いてみると、少女は顔をそむけてしまった。
見ているのは、丘から見える遠い海。
昼間の青い空は本当に絵の具をそのまま塗ったようで……。あれ?

「そういえば、学校はどうしたのであるか?」

思い返せば今朝、冷えた霧の中を同じような学生服を着た少女たちが海に向かって歩いていた。
ちょうど我輩が出版社へ出向こうとしていた時間である。
今日は平日。初等教育の学生でもなければ、こんな時分に彼女が街に出ているわけないのであるが。
小さな頭を覗きこむと、少女は逃げるように落下防止の柵まで歩いていった。

「今日は帰ったの。」
「そう……具合でも悪いのであるか?」
「別に。」
「?」

少女はそれきり黙りこくって、我輩はどうしていいやら分からなくなった。
冷たく、凍りそうな風が海から吹く。
質問には答えたのだからもう去っても良い気はするのであるが。

「ねえ。」
「わっ。なな何であるか?」

悶々と悩んでいると、やや大きめの声が飛んできた。
見れば真っ直ぐな視線をこちらに向けていた。
女性をじろじろ見るというのは失礼であろうが、前髪の隙間から眺めた少女は、大きな黒い瞳を持っていた。

「さっき言ったよね。読まなくても分かるって言われたって。……わたしもね、言われたよ?」
「え?」
「“あんたなんて、誰に見られる必要もない、見なくても分かる、グズだってこと。”」

少女は、大きな黒目をそのままに、揺らぎもせずに言い放ってみせた。

「ねえ、どうして?」
「……え、と……だからそれは、」

おそらく一字一句違わないのであろう。
だとしたら。

「ねえお兄さん。」
「?」
「答え、見つけてきて?」
「答え?」
「どうして、読まなくても分かるのか。わたしね、さっき少し読んだよ、それ。…とってもおもしろそうだった。」

だから。

その後に続くのはきっと「覆して」。
動揺する我輩に、少女はゆっくりと瞬きをして、それからまた食い入るようにこちらを見つめていた。
一体、我輩に何が出来ようか。
必要無いのだと言われたこの役立たずに。

少し考えた後、我輩は、腹にくっつけてすっかり温まってしまった封筒を少女に差し出した。

「あげるのである。読まなくても分かる彼らには必要なさそうであったが、君にはたぶん、楽しんでもらえるのである。」

久しぶりににっこり笑ってみると、少女はハッとした後少しばつが悪そうにそっぽを向いた。
それでも受け取り、かさかさと封筒を開いて、分厚さに少し口元が歪む。
我輩も学生時代は気苦労が絶えなかったことを、なんとなく思い出していた。
それを見ないように、意識しないように出来たのが小説である。
少女にとっての世界が学校一択でないことは、今ここでは我輩しか知らないから。

「途中で犯人が分かったら、我輩に教えてほしいのである。」

我輩も、質問の答えを頑張って探すから。
交換条件。
乱歩君と少女、どちらが早いかは明々白々ではあるが。

「……うん。」

少女はひとつ静かにうなずくと、小さな体に沢山の原稿を抱えて椅子に腰かけた。


寒空の下、冬の風が、丸くなった用紙の角をかさかさと捲っては通り過ぎていく。


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