夢物語

□人間味(芥川)
1ページ/2ページ



絵の具の色みたいとはまさにこのことだ、と。
雲ひとつ無い快晴を見上げてそう思った。
時刻は十五時。
まだ冷たい風に、春のにおいが漂っている。

「あれ?」

複雑な模様が彫刻された玄関扉は重厚で、大きな造りをした古い洋館に出迎えられるにはまさにぴったりだった。
それを背に、今おいとましたばかりだというのにもう眼前に続く石造りの橋を渡っているのだからわたしは驚いた。
後ろを振り返って、洋館の二階に目を向ける。
さっきまで居た客間と思しき部屋にはレースのカーテンがかかっていて、揺れる様子もない。
こんな静かな、山手の奥にまでマフィアに関係している人がいるなんて。
普段は何も思わないのに、ふと怖くなった。

「もうあんなとこに。」

彼の人はといえば、もう橋の中間を通り過ぎて、その真っ黒な背中が青空には目立ち過ぎていた。
確かになあ、とわたしは納得した。
目立つのに、いつの間にか見失う。
樋口先輩が言っていたとおりだった。


───私の代わりに、芥川先輩の護衛を。

そんな話があったのは今朝。
携帯電話の画面に先輩の名前が無ければ、不審な電話だと思って電源を切ったに違いないほど酷い声だった。
流行りの風邪らしい。
随分必死に訴えかけられたものの、護衛と言ったって。
足手まとい以下にしかならないだろうと思いつつその後ろについて回って、初めて真意を知ったのだった。

「あの、この後ですが、本部に戻る予定になっています。」

ページを捲った手帳を片手に橋を駆ける。
わたしは斜め後ろからその黒い外套に声をかけた。
芥川先輩の死角から声をかけてはならない。
メモ帳の右端のほうに書いてある注意事項だ。

「……。」

沈黙が訪れるが、返事は無くても気にしない。
注意事項その二。
わたしはちらりと横顔を確認してみた。
前を向いて歩いている。
一体どこを見ているのだろう。
橋を渡りきると花壇と噴水で彩られた場所に出て、右手には海が広がっていた。

「それから……あ。」

その花壇から左方向。
フェンスに蔦を絡ませるようにして頭を向けている花に、つい声をあげたのはわたしだった。
ムダ口は禁止。
注意事項その三が視界の端に見えて、わたしは無かったことにするために話を続けようとしたけれど、立ち止まった先輩にぶつかりそうになってその言葉はぽろりと逃げていった。

「……。」
「ひ……。」

なんだ、と言わんばかりに黒瞳がわたしを見下ろしていた。
刃物のように鋭い眼光。
怖いいい……。
必死に我慢した結果、喉の奥からしゃっくりの出来損ないみたいな音が漏れただけに済んだが心臓は早鐘を打っていた。
生命危機的な意味で。
かつて樋口先輩も、敵にかけた言葉ひとつのミスで頬を引っ叩かれたと言っていた。
勤務中に無防備な声を上げるなど、処刑に相当する失態に違いない。
それに、さっきの洋館で、マフィア傘下の企業の重鎮だという見た目儚げな老婦人に対してすら苛立ちを顕わにした前例がある。
敵であれ味方であれ、容赦の無いお人なのだ。
わたしは今にも泣きそうになりながら、それでもその一挙手一投足を見逃すまいと目を開いてみせた。

「……なんだ。」
「……あの…その、すみません。」
「……。」
「えっと、」

ぶたれるわけでは無いらしい。
しかしながらわたしは、その鋭い目の上、眉頭の微妙な動きを注視しながら考えていた。
こうなると、わたしは何を言えば正解なのだろうかと。
勤務の話の続きをすべきか、それとも。

「ひ、樋口先輩が今日は風邪で。それで、お見舞いにはあの赤い花がいいかなと……。以前好きだと言っていたので、思い出して。」

如何に恐ろしくとも先輩に嘘をついてはならない。
注意事項その四だった。
ミスは必ず報告し、その話は過小であっても過剰であってもならない。
まあ、これはどんな企業でも同じだろうけど。
かくしてそこまで言い終えて、しかしながらわたしがどんなにか悲壮な顔つきか、確認しようにも真っ黒な瞳には何も映っていなかった。
どう思っただろうか。
わたしと先輩のにらめっこが続く。
どんなに眺めても何も読みとれないその表情は、しばらくして後ろ姿へと変わってしまった。

「あの。」

すたすたと歩いていったのはわたしが反応を示した花の場所で、わたしは後ろから声をかけないよう気をつけながら横に立った。
問いかけに反応は無い。
何かを考え込むように顎に添えていた手がその花に伸びたことに、わたしの心臓が反射的にずきりと痛む。

「あっ駄目です!」
「……。」
「あ……えと、」

先輩の手は宙に浮いたままで、顔だけがこちらを向いていた。
固まること五秒。
腰が妙な角度になったまま、先輩は言った。

「これでは無いのか。」

無いことも無い、けど。
わたしも一緒に固まった。
先輩は、腰が痛いのか元の姿勢に戻る。

「この花ですが、ここのは取っては駄目なんです。」

わたしはそれだけ言って、表情に乏しいその顔を申し訳なく眺めた。
少しの時間が経つと、先輩は真っ黒な背中を見せて去っていった。

(何だったんだろう。)

真意は見えないまま、わたしは再度先輩を追いかける。
視界に入る位置で、横顔に話しかけた。

「さっきの花は、お花屋にも売っているので買っていきます。樋口先輩が早く元気になるように。」

わたしが話しかけても先輩は変わらず歩き続けた。
海の見える丘に出て、そのまま住宅が並ぶ道路沿いへ。
青空の下、墓地を横目に進んでいくと花が咲く公園があった。
遠くのほうに、空に浮かぶみたいな本部が見える。
蝶がゆったりと飛んでいそうなこの雰囲気とはまるで違う場所だ。

「あの、今日はいつもと勝手が違ってすみませんでした。」

彩りの中で異様な存在感を放つ黒。
その横から挨拶を投げかけると、歩みが止まった。

「きっといつもは、樋口先輩がいろいろとやりやすいように考えて動いていたと思うので。」

風が吹いて、横顔を隠した。
持っていた手帳のページもはためく。

「否。」
「?……えっと、」

思わぬ否定の一語は、問いかける前に会話ごと閉じられた。
またすたすたと、先輩は早足で晴れ空の下を嫌うように歩いていく。
本部までの道のりを同行すべくわたしは後に続いた。

次の予定を確認するために捲ったメモ帳のページが、注意事項その五を掠めていった。

先輩の話は聞き逃してはならない。


「静かで心地良い。」


癖のように咳き込んだ音と風に、それは消えていく。



*
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ