BLACK
□with chocolate
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甘ったるい香りにそわそわと浮かれた空気
悲喜こもごもの表情の生徒達
時には甘く、時にはほろ苦いバレンタインデー
(‥‥から今年は開放されたと思ったんだが‥)
今年はバレンタインデーが土曜のせいか、学園には毎年ほどの盛り上がりはなかった気がした
だが現在室内には香ばしく濃厚なチョコレートの匂いが充満している
軽やかな電子音を合図にキッチンへ向かった部屋の主が一人暮らしの宿舎には不似合いな立派なオーブンを開けると
むっとむせ返る程の甘い香りがキッチンからリビングまで広がり、さらに空気の濃度を上げる
「ファイ、スフレ焼けたよ」
白いココットの縁からチョコレートのふわふわのスポンジがかさ高く顔を覗かせている
ユゥイはスフレの真ん中にバニラアイスを乗せると素早く銀のスプーンでチョコレートソースを格子縞にかけてゆく
その一連の動作は無駄なく美しい
仕上げにミントの葉をちょこんと飾ると出来に満足したのか小さく微笑んだ
「スフレが萎む前に、熱いうちに召し上がれ」
リビングのローテーブルに銀のスプーンと共に揃いのスクエア型の皿に乗せられたスフレはひとり分
勿論、それを食べるのは‥‥
「わぁーい!ユゥイのスフレー!!」
瞳をキラキラさせながらファイはぎゅっと掴んだスプーンで熱々のスフレの上でとろけるアイスと一緒にチョコレートスポンジを掬って口へ運ぶ
見ているだけでぐっと胸やけしそうなった黒鋼は自分の前にあった冷めかけのコーヒーをたまらない気分で飲み干した
「んんっ美味しいっっ!生チョコとかトリュフはたくさん貰うけど、焼きたてのスフレは貰えないもんねー」
うっとりとスフレを味わうファイの顔は幸せそのもので、それを嬉しそうに見つめるユゥイの顔も穏やかで幸せそうだった
それは甘いものは苦手な黒鋼でさえチョコレートのもたらす不思議な幸福感が理解できるような気がしてしまった程に
まあバレンタインも悪くはないかと思えてしまった程に
「黒鋼先生は‥お酒にする?」
ユゥイが空になった黒鋼のコーヒーカップをさげながら問うてくる
聞いてはいるものの、黒鋼の返事は分かっているようだった
「そうだな‥‥お前も飲むのか?」
「うん、今夜は作ったり貰ったりしたチョコレートがたくさんあるからたまにはウィスキーにしようかな?先生もそれでいい?」
「俺は別になんでもかまわねぇ」
オレも飲むー!と追いかけてきたファイの声に了解、と苦笑しながら再びキッチンへ足を向けたユゥイがリビングに戻ってくるとその手には大きめのトレー
トレーの上には酒の瓶やグラス、氷の他に小さなチョコレートが並べられた皿もあった
コトンと置かれたチョコレートの皿を黒鋼はごく無関心に他人事のように見ていた
どうせこの双子が酒と一緒につまむのだろうと
ところが
「あーそれねー、黒様先生の分もあるんだよー」
ファイがはふはふとスフレを食べながら宣った台詞に黒鋼はしばし呆然とした
「物食いながら喋るんじゃねぇ!‥‥って‥俺の分って−−−何の」
「だからー、チョコ」
黒鋼が甘い物が苦手なのは周知の事実だ
現に今年のバレンタインもチョコレートは殆ど貰わなかった。そのかわりに酒や、生徒からはお酒のつまみにしてくださいとスルメやさもなくば煎餅などイマイチ色気のないものばかりを貰っている
‥‥なのにどうしてこの二人からチョコレートなのか
釈然としない表情の黒鋼をちらりと見たユゥイは何食わぬ顔でほっそりとした指を皿の上で思わせぶりにさ迷わせる
「ファイと二人で作ったんだよ。ボンボンショコラ」
綺麗に並んだボンボンショコラは色も形も様々で長方形や正方形、楕円などなど
やがてぴたりと止まった指が一粒を摘む
そのチョコレートは他のものより色が暗褐色でたったひとつ、ハートの形をしていた
「俺はいらねぇ。お前らで食えばいいだろ」
「甘くないから大丈夫だよ」
黒鋼の言い分をあっさりと無視した白いニットの腕がスルリと延び、黒鋼の口元近くまでチョコレートを運ぶ
「だからいらねぇって」
「いいから食べてみてよ。リキュールも効かせてあるから、ね?」
ソファに腰掛ける黒鋼の横に座り、押し掛かるように物腰柔らかく、だが珍しくじわりと迫るユゥイの態度に
それは黒鋼の刺にもならない、ほんのささやかな冗談だった
「やけに強引だな‥‥ひょっとして毒でも入ってんのかよ?」
その言葉にすっとユゥイの瞳が細まって奥深くなった蒼が水が氷へ凍てつくようにシンと光彩を変えた
甘い甘い幸せの空気にじわり広がる妖しい気配
「−−−おい」
まさか。そんなことは
「食べてくれないの?」
寂しそうに哀しそうに
いや、違う‥‥試すように黒鋼の瞳を見つめる
「もし‥‥毒が入っていたら‥‥食べてくれないの?」
持ち上げられたチョコレートは黒鋼とユゥイの狭間で宝石さながらに艶やかな光沢を放っている
これはたちの悪い冗談か挑発か
それとも
黒鋼は一度ユゥイをきつく睨みつけると緩慢に暗褐色のハートに唇を寄せる
チョコレートが口に含まれてもユゥイは手を退けようとしない
細い指を食んだまま小さな塊に舌を這わせると、カカオの香りと一緒に馴染みのないリキュールの強い香りが微かな痺れと共に鼻につく
そして指の間からどろりと蕩けだした苦味と甘味が喉を伝う感触に思わず眉が寄るがどうにか嚥下した
ハートがその形を失ったころ、黒鋼の厚みのある唇から漸く指がゆっくりと引き抜かれ
白い指先には溶けたチョコレートがべったりと付着してぬらりと光っている
「‥‥これでいいだろ」
顔をしかめる黒鋼に悪戯に笑いながらユゥイはその指をぺろりと舐め取った
「毒なんて入ってないよ‥‥ほら」
「そう、入っていたのは媚薬でしたー」
冗談めかした声にふと目をやると
いつの間にかスフレを食べ終えたファイが黒鋼とユゥイの間に擦り寄ってくると弟の手にある皿からボンボンショコラを一粒とった
「はい、オレも食べさせてあげるー。黒たんあーん」「‥‥もういらねぇ」
確かに苦味は強かったものの、濃厚なチョコレートは黒鋼の臓腑に充分に満ちている
じゃあユゥイにあげるね、とファイは摘んだチョコレートをユゥイの口に入れると自分もぱくりと一粒口に放り込む
その先程までとは違い、ごく平和な光景に黒鋼は溜息をつくと未だ口に残る甘い匂いを流し込むべく琥珀の酒が入ったグラスを手にとった
「黒鋼先生」
「黒様」
同時に呼ばれてまだ何かあるのかと、ややうんざりしながら顔をあげるとそこには指を絡めて寄り添う双子の姿
薄く開いた唇の間からちらちらと出入りする赤い舌に絡み付く褐色のチョコレート
まだ酒は飲んでいないのに黒鋼の脳髄がじわりと痺れ始める
五感が己から滑り落ち、暗闇に支配されてゆくような
(−−−そうか‥)
毒なんて、今更な話だった
遅効性だけれども身も心も蝕む毒に黒鋼はとっくに浸っている
もう、やめられない毒に
ファイとユゥイの手が絡まったまま黒鋼に差し延べられる
「黒様」
「黒鋼センセイ」
もはや視界さえ意のままにはならず、目の前の双子から目が離せない
あの小さなハートのチョコレートには本当に媚薬が仕込まれていたのだろうか
さもなくば本当に‥‥
同じ顔が対をなして微笑む
「−−毒を食らわば皿までどうぞ‥‥?」
end