パナケイア

□第八章
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『ユキ……』



心配そうにかけられた声に、彼女は抱え込んだ膝に埋めていた顔を少し上げる。そうして顔を見ない程度に首を後ろに回しては、自嘲を混ぜて小さく笑った。



『また子さんも、私を笑いに来たんですか?』



誰にも笑われていないはずなのに、彼女は高杉の周りに居る全ての人に笑われている気がしているのだ。クスクスと自分を笑う高い声が耳鳴りのように彼女の耳を劈ぐ。見えないナニカは心も穿ち、今にも身体が壊れてしまいそうだ。


ユキは耳を塞ぎながら頭を抱え、「独りにしてください」と嗚咽と一緒に吐き出す。だがそんな彼女をまた子は独りに出来るわけもなく、黙って寄り添うように隣りに座った。



『……知らなければ良かった』
『知らないままで、いたかった』



そう呟いた彼女は前のめりに立ち上がって小机の引き出しを開けて鋏を取り出す。それを握りしめ、自身の手首に勢いよく突き刺し、そこからポタポタと鮮やかな血が流れた。

また子は慌てて止血しようとするも、彼女の傷口は淡い光を帯びて塞がっていく。その姿をユキは悲しそうに見つめる。



『彼に捨てられたら死にたくなる。……そう思っていた私が彼を捨てた。それでも死にたくなる気持ちは変わらないから、こうして死のうとしてるのに……身体は許してくれないんです』



彼女は底なし沼に落ちてしまったのだ。一度そこへ落ちてしまえば、例えもがいたとしても這い上がることは出来ない。


後はゆっくりと絆されるように落ちていく。
その人を想いながら、沈んでいくのだ。


しかし彼女はこの気持ちの名前を知らない。それに名前なんて付けられはしない。この世を憎む彼女に、この世の言葉を付けたところで意味は無くなる。


だが、強いて言うのなら「愛」と呼ぼう。愛に溺れ、情に流され、そうして行き着く先は地獄。終着点のそこで、彼女が彼を待つのか……はたまた彼が彼女を待つのだろうか。

死ぬまでに至らない程の苦しみを与え続けられているユキは生殺しの気分だ。未だに忘れることのできない高杉から受けた痛みが、甘噛みのように彼女の心を蝕み続けた。



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