第2幕

□崖に咲く一輪は美しく
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国木田は一人で立っていた。
場所は市内のとある劇場の前、時間は午後四時三分五秒。
国木田の時計は正確だ。

約束の時間は午後四時ちょうど。
しかし相手は未だ国木田の前に姿を現していない。


「どいつもこいつも時間を守るということがわかっていない」


国木田が思い出しているのは無論、同僚の太宰治なる男である。
昨日は出社時間を三時間五十九分五十九秒過ぎても会社に現れなかった。

四時間の遅刻は言うなれば半日のサボりだ。
半日あれば仕事の一つ二つが片付く。
それこそが理想であり非常に効率的で平凡な思考であることは自明。

時間を無駄遣いにする人間の神経が国木田には理解できなかった。

そして発信器を駆使して探し回ってみれば案の定川の中。
しかも見慣れない少年と共に、奴は川辺で平然と「国木田君に奢らせよう」などと言っていた。

空腹の未成年を見捨てなかった点は褒めるが、そのやり方が非常によろしくない。

国木田の財布の中身は国木田が一秒の無駄もなく働いた末手に入れている財、すなわち理想通りの行動が評価された証である。
それを理想の"り"の字どころか常識すらさっぱり理解していない男に簡単に消費されてはたまったものではない。


「……中島敦と言ったか」


行き倒れた末太宰の自殺を助けてしまった不運な少年を思い出す。

知らぬ間に異能力を発現させ、何もわからぬまま孤児院から拒絶された少年。
異能力は宿った者の幸せを支えるとは限らない。
彼のように異能力により不幸になる者もいる。

彼を探偵社員にする、と太宰は言った。
太宰は馬鹿だが頭は切れる。
何か意図があるのだろう。

しかし中島敦は区の指定災害猛獣という全く有難くない地位にある。
いくら探偵社とはいえ、害獣を公に養えるほどの権力はない。


「……まあ良い」


明日、中島敦の入社試験が予定されている。
手筈は先程話し合った。
これがうまくいけば中島敦は入社できる。

社員となってしまえば、その身に課せられた法の枷などどうとでもなるのだ。

先程の苦労を思い出し、国木田は苦い顔をした。

いつも国木田を苦労させている太宰を谷崎の協力を得て今度こそ陥れようとしたが、失敗したのだ。
奴は一体何なのか。
念密に考えた計画すら見切り、そして利用してしまう。

頭が切れる、などという言葉では足りない。

この後谷崎と慰労会を予定している。
空いた時間を有意に使うべく、国木田はここに立っているのだった。


「すみません」


ふと国木田にかかる声がある。
その流れる水のような、濁りの一つ、棘の一つも含むことの叶わない透き通った声の主へ国木田は目を落とした。

少女が駆け寄ってきていた。
肩程までの亜麻色の髪は傾きかけた太陽の光により橙の輝きを持ち、その光は髪飾のように彼女を彩っている。

服装は彼女を男子と勘違いするほどに簡潔だ。
装飾の少ない上着、膝が隠れるほどの長さのパンツ、ふくらはぎを覆う丈の長いブーツ。
動きやすさが重視されていることは明白だった。


「お待たせしました」

「四分二秒だけだ、問題ない」

「……秒数まで気にされている方は初めてです」


緑の目を丸くし、少女は再度「すみませんでした」と頭を下げてくる。

彼女は国木田の前に立つこの劇場で活躍する、舞台女優だ。
その若い見た目からは想像できないほどの実力者で、その手腕は「観る者聴く者全ての魂を抜く」とまで表現されている。

何度か足を運んでいるが、その言葉は誇張してはいるものの間違いではなかった。

彼女を見れば、彼女の足元に咲く異国の花すらも見えた。
彼女の声を聞けば、自らが異国の地の住人であると錯覚した。
彼女の歌を聞けば、此処が何処であり自らが何者であるかを忘れてその歌声に聞き入った。

才能だ。
他者をも己の作り上げた世界観に引き摺り込む、天性の才。

その神がかった天才女優となぜ待ち合わせていたか。
それは至極単純なことである。

約束したからだ。


「これ、ありがとうございました」


彼女が差し出してきたのは一冊の本だ。


「この国の言葉は面白いですね。平仮名と片仮名、そして漢字……それらを組み合わせるだけで、物語の雰囲気が出来上がるんですから」

「今回貸したのは漢語を良く使う作者の本だったが、読めたのか?」

「少し苦戦しました。辞書を片手に読みましたが……漢字を多く使うと小難しさや堅苦しさが出るんですね。お話自体も面白かったです」


彼女は異国の出身で、あらかじめ習得してあったためこの国の言葉の読み書きには苦労しないものの、小説という形態の文章は読んだことがないのだという。

そう教えてくれた彼女は、国木田の書物を借りたいと願い出てきた。

国木田は難解な新書や合理的な物語を好む。
太宰が速攻「ねえ国木田君、この本挿絵がないよ」と投げ出しそうなものばかりだ。
不安はあったものの、彼女はこの本を無事読み切れたらしい。

差し出された本を受け取る。


「明日、他の本を持ってくる。今日は慌ただしくて選ぶ暇がなくてな」

「お時間がある時で構いません。ありがとうございます」


少女はにこりと笑った。




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