第2幕

□黒衣が牙を剥く
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僕、中島敦はとうとう職を得た。

それは素晴らしいことだ。
なぜならお金が稼げる。
なぜなら社会に奉仕できる。

しかしそれが唐突であった場合、人は喜びよりも戸惑いを先に覚える。


「まさかこうなるとは」


騙されるように武装探偵社と関わり、騙されるように入社試験を受けさせられ、断ることも断る理由もなく受かってしまっていた。
数日前まで衣食住に困っていた孤児だったとは自分でも思い難い。

恵まれているのだと思う。
実際恵まれている。

だから頑張ろうと思う。
取り敢えず追い出されたくないから頑張ろうと思う。


「では、ご案内します」


樋口と名乗った女性依頼人に導かれ、敦は谷崎、ナオミと共にヨコハマの街を歩いていた。

依頼内容は密輸業者の見張り。
初仕事だが一人ではないし、簡単な仕事だと言われている。
きっと影から写真を撮るだとか、その程度なのだろう。

樋口は振り返ることなく道を進んでいく。
スーツを着こなしたその背中を追いながら、敦は谷崎らと会話を弾ませていた。


「それにしても、あの前職当てゲーム……太宰さんの前職が全くわかりませんよ」


当てれば七十万、とぶつぶつ呟く敦に、谷崎は苦笑する。


「しょうがないよ敦君。誰もわからないから、そこまで賞金が膨れ上がったんだもの」

「一体あのゲーム、誰が賞金を得るんでしょうね?」


ナオミは谷崎とぴったりくっついている。
歩きづらくないのか、などという疑問は捨てるべきだと敦は既に学んでいる。
彼らに疑問は不要だ。
受け入れるしかない。


「社長も知らないんでしょうか?」

「さすがに社長は知ってると思うよ。というか社長も知らなかったら、太宰さんただの不審者になっちゃうよ」

「確かに……」


というかもはや、する事なす事が不審者そのものだ。
喫茶の店員だけでなく樋口さんも口説いていたし。
今でもきっとヘッドホンで何かを聞きながらソファで寝転がっているに違いない。


「そういえば、敦さんは明後日の午後は空いていますの?」


唐突にナオミが尋ねてくる。
無論暇だ。
というか、仕事次第というだけで予定も何もない。


「空いていると思いますけど……」

「じゃあ春野さんと一緒に演劇を観に行きません?」

「演劇?」

「せっかくワガママを言ってチケットを融通してもらったのに、兄様ったらお仕事が入ったらしくて、一枚余ってしまったんです」


恨めしげな妹の視線から逃れようと体を捻る谷崎の顔は青ざめている。
この一場面だけでも二人の力関係が読み取れそうだ。


「演目は今話題の『ロミオとジュリエット』! 胸を焦がす決して叶わぬ恋……素敵なお話ですのよ!」

「今話題ってことは、有名なんですか?」

「敦君は知らないんだね」


谷崎によると、このヨコハマには太陽座という劇団が最近有名であり、特に最新作である『ロミオとジュリエット』は毎日席が売り切れるほどの人気らしい。


「太陽座……通りすがりの人が話していたかもしれないです」

「そっかあ。じゃあ行くと良いよ。観に行くって伝えれば、仕事が残ってても行かせてくれると思うから」

「そんなに凄いんですか!」


あの国木田さんも、社長すらも「行って来い」と言うのだろうか。
信じられない。
どれだけ凄いんだ。

もしかしてもの凄く金額が高いとか。
もしかしてもの凄く豪華だとか。
もしかしてもしかして、もの凄くど偉い人しか立ち入れなくて僕なんかが誘われるなんて奇跡だとか。

敦の妄想は膨れあがっていく。


「そ、そそそそんな場所に僕なんかが行って大丈夫なんですか……?」

「問題ないよ。というかね、あの劇団に所属してる知り合いがいて、その人とうちの会社が仲良いんだ」


ナオミが「その方にチケットを融通していただいたんです」と付け加える。
なんでも、その劇団の稼ぎ頭らしい。


「そうだ、今度敦さんとクリスを誘ってお茶会を開きましょう! ね、兄様!」

「そうだね、楽しそうだ」

「勿論兄様は買い出し準備要員ですわよ?」

「えええ、仲間に入れてくれないの……」

「なーんて……う、そ、ですわ! ふふっ、焦った兄様も素敵ー!」

「な、ナオミ、さすがにここでそれは……!」


また始まった。
しかも白昼堂々、人混みの中で。

戯れる谷崎兄妹と呆れる敦。
三人を置いて、樋口はスタスタと先を行く。
慌てて後を追いながら、その背中を見つめる。

武装探偵社への依頼人って、みんなこんな風なんだろうか。
動じる事なく、近くで交わされる会話に入ることもない。

きっとこの人がすごく真面目なだけだろう、と一人結論付けて、敦は樋口に案内されるまま道を歩いて行った。




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