第2幕

□爆弾咲く夜
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その日は珍しい日だった。

何がか。
無論、あの男である。

あのサボリ魔の太宰が、仕事時間にしっかりと席に座り、真面目な顔でパソコンに向かっているのだ。
こっそりと天気を確認したが、雨が降る予報は出ていない。

これは何だ。
夢か。
それともまた妙な草かキノコでも食したか。


「ねえ国木田君」


神妙な声が国木田を呼ぶ。
至って平静に、国木田は眼鏡を押し上げた。


「何だ」

「一つ訊きたいことがあるのだけれど」

「……何だ」


太宰がパソコンを持ち上げる。
その画面を国木田へと向け、太宰は声音をそのままに言った。


「この女性、どう思う?」


パソコン画面に映っているのは、報告書の作成画面でも市警からのデータ書類でもなかった。
何かの上演を告知するポスター画像だ。
男女が悲痛な面持ちで向かい合っている。


「この女性、私と心中してくれそうな儚さがある。素敵だと思うのだけれど、どうかな」

「……太宰」

「何だい、国木田君」


静かな声のやり取りは、そこで終わった。

ダン、と手のひらで机を叩き国木田が椅子を跳ね飛ばして立ち上がる。


「珍しく机に向かっていると思ったらやっぱりそういうことか太宰ィ!」

「私に期待してくれていたのかい? うふふ、照れるねえ」

「照れるな!」


しかし今日は一日晴れで決定だ、それは良かった。


「というかそれは何だ! 仕事と全く関係がないではないか! さっき言った打ち合わせの資料作りはどうした! 昨日の密輸業者の報告書は!」

「まだだよ」

「当然のように言うな!」

「あ、太宰さん、それ太陽座のポスターですか?」


騒ぎを苦笑しながら見ていた谷崎が、ふと声をかけた。
「太陽座?」と聞き慣れない単語を反芻した国木田へ、谷崎はにこやかに笑う。


「最近知名度が上がった劇団です。すぐそこの劇場で活動していて、今じゃ当日券もすぐに売り切れちゃうくらい人気があるみたいで」

「あ、僕も知ってますよ」


机の上で鉢植えをいじっていた賢治がくるりとこちらを向く。


「凄い人が現れたんですよね。観る者聴く者皆魂を抜かれるほどの演技力なんですって。この間乱歩さんの駄菓子の買い物に付き合ったついでに与謝野さんと三人で近くまで行ったんですけど、人がたくさんいて。あんなに人が集まってるのを見たの、初めてでした」

「そうそう。ナオミが見たがってるんだけど、なかなかチケットが取れないんだよね」


わいわいと話す社員の声を聞きつつ、国木田は自身のパソコンへと向き直った。
今は仕事中だ、無駄話をしている暇はない。
それに、劇など全く興味がなかった。

興味がないからその劇団のことも知らなかったのだ。
断じて世間に置いて行かれているわけではない。
断じて、違う。
それに、今の国木田には劇団などよりも重要なことがある。


「それより太宰、ケータイは見つかったのか」

「いや、まだだよ? 何、気になるの?」

「貴様のケータイだろうが。なぜ俺が気にしなければならんのだ」

「でも五分くらい前にもその話題になったじゃない」

「……そ、そうだったか」


平静を装って眼鏡を押し上げる。
太宰のケータイなど知ったことではない。
その中にどんなデータが入っていようと、国木田が気にするようなことではなかった。
例えそれが国木田に関することであっても、誰かに知られて困るようなやましいことは、この人生において何一つしていない。

だから、気にしているわけではない。
断じて、違う。

カタカタとキーボードを鳴らしながら作業を進める国木田に、「あの」と谷崎が言いづらそうに囁いた。


「く、国木田さん、さっきから漢字変換が上手くいってませんけど、大丈夫ですか……?」


谷崎がそっと耳打ちしてくる。
改めて画面を見、ぐ、と呻いた。


「……大丈夫だ、問題ない」

「な、なら良いんですけど……」

「問題ない」

「は、はあ」

「国木田君、なんで二回繰り返したの?」


太宰が真っ当な突っ込みをしてきたちょうどその時、国木田の胸ポケットに入れていたケータイがバイブ音を発した。

着信だ。


「はい」

『あ、こんにちは。国木田独歩さんですよね?』


聞き覚えのある声が聞こえてくる。
人の良さを思わせる、明るい声。


「あなたは……」


言いかけ、名前を聞いていなかったことに今更気がつく。
黙り込んでしまった国木田へ、相手は気にした風もなく言った。


『川辺で倒れていた太宰さんを見つけて、連絡した者です』


やはり、と返す。
不思議そうな目を向けてきた同僚達から逃げるように、国木田は部屋の外に出た。
賢治と谷崎はともかく太宰に聞かれると面倒なことになる予感がしたのだ。


「あの時は迷惑をかけた、うちの給料泥棒が……」

『電話しただけですし特に何もしてませんよ、わたしは。……そうそう、謝らなければいけないのはわたしの方で』


間違って太宰さんのケータイを持ち帰っていたみたいです、と言う彼女に納得する。
国木田の電話番号がわかったのは、手元に太宰のケータイがあったからなのだろう。
それを返したいというのが、電話をしてきた理由のようだった。


『お届けに行こうかと思っているんです。武装探偵社さんでしたよね? 直接事務所にお伺いしても良いでしょうか?』

「それは構わな……」


言いかけ、ふと考える。
太宰のケータイには国木田の何らかのデータが入っている。
奴よりいち早く入手し、そのデータを確かめなければいけない。
これは好都合なのではないか。


「いや、ビルの前で待っている。俺から太宰に渡しておこう」

『わかりました。すみません、手を煩わせてしまって』

「こちらこそ申し訳ない。……待て」


通話が切れそうになった直前、国木田は声を発していた。

突発的なそれに内心狼狽える。
けれど深く呼吸し、国木田はずっと言えなかった一言を告げた。


「……名前を聞いても良いだろうか」


偶然電話をやり取りしただけの関係だ、相手の名前など必要があるようには思えない。
けれど、聞かないままでいるのは落ち着かなかった。


『……クリスです』


柔らかな笑みを含んだ声が、耳に届く。


『クリス・マーロウ』


――川辺で出会った青色が、微笑んだ気がした。




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