第1幕

□非凡なる異常
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しばらく台本の表紙を見つめていたクリスは、肩で息を吐き出し、そして。


――台本を床に置いた。


驚く観衆を前に、顔を上げる。
ふ、とその表情が緩んだ。


「――どうしましょう、今すぐ歌い出したい気分だわ!」


両手を大きく広げ、喜びに満ちあふれた表情で少女は高らかに告げた。


「素晴らしいわ! これほど素晴らしいことがこの世の中にあるだなんて! 生まれて初めての船旅、長らく願い続けた海の旅、それが今日、叶っただなんて!」


それは歓喜の声だった。
少女はくるりと回って天を仰ぐ。
光が少女を柔らかく包み、その輝いた表情を照らし出した。


「きっとこれは神が私に与えたもうた奇跡の船なんだわ!」


甲板の上で少女は胸の前で手を組んで目を閉じ、口元に微笑みを浮かべる。


「私はこの後、四十日四十夜を越えた朝焼けの中、神が新たに作りたもうた世界に降り立つの。それはどんなに美しい光景かしら! 海が久方振りに顔を出した太陽を映し出し、太陽が雨水の雫が落ちる大地へその輝きを届け、大地が広々としたその広大な土色に水をたたえて……いいえ、いいえ、想像もつかない!」


湧き続ける感情が、少女をくるりと旋回させる。
ふわりとスカートの裾が広がった。
先を綴じていた糸を断ち切った瞬間、一気に開花した花弁。


「ずっと待ってた……ずっと、待ってたの」


喜びを映し出す目から、涙がこぼれ落ちる。
それは少女の目尻を離れ、宙を舞い、光を映し込んで輝いた。


「これが幸せ、これが喜び……これが自由、自由なのね!」


――知らない少女が、そこにいる。


解き放たれた喜びに舞い踊る少女が、そこにいる。
見知らぬ空の下、輝く太陽の日差しの下で、穏やかな風をまとった少女が。

見たことのない輝きをその湖畔の色に映した彼女の微笑みを、スタインベックは見つめていた。
今まで、これほど誰かを美しいと思ったこともなかった。

造形の美ではない。
晴れた空を見上げ続けたくなるような、岩肌を流れ下る川水の猛々しさと水しぶきに見惚れるかのような、絵や言葉で表現したくなるような、自然の美しさだ。


「――この先も必要?」


目元を拭いながら、その少女がぽつりと呟いた。
その声に歓喜の色は全くない。

舞台に立ち尽くすその姿は、見知った少女のもの――まぎれもなくクリスだった。

崖から突き落とされたかのような衝撃に、スタインベックは息を吐き出そうとし、呼吸を止めていたことに気がつく。


「……いいえ、十分よ」


呆然としたコーディリアの声が彼女に答える。


「……演技は初めて?」

「うん」

「そう、よね……」


コーディリアがぽつりと呟く。


「じゃなきゃ、こんなの、無理だわ」

「……どういうことだ、コーディリア」


支配人がようやくといった風に声を絞り出す。
コーディリアが振り向き、その柳眉をひそめた。


「あれは演技じゃない。あの子、役になりきっているんじゃなく、役そのものになっているのよ」

「よ、よくわからないんだが……?」

「見ての通りよ。あの子にはね、自我がない」


その場にいた全員の目が舞台上の少女へと向く。
突然の注目に、クリスは戸惑ったように身をすくめた。


「自我がないから他人そのものになれる、誰にでもなれる。演技ではなく本人そのものなのだから、その苦労も喜びも本物に違いない、なら心惹かれるのは道理だわ……天才的ね。演技だけでなく歌もそうでしょう。歌も、歌詞を読み曲を聞き、そこにある感情を知り、それを声に乗せる演技方法だから」


でも、とコーディリアは声をひそめる。


「不安でもあるわ。自我がないということは、誰にでもなれるということは、つまり”誰でもない”ということ。確立した自分がないということは即ち、役に呑まれるということなの」


役に、呑まれる。


「普通、演技っていうのは自分の性格や思考を役に”近付ける”の。けど、あのやり方は自分の性格や思考に役柄を”上書き”しているような状態よ。洗脳に近いと言ったらわかるかしら。洗脳されると本来の自分を忘れる。それを何度も繰り返せば、操り人形のような意志も自我もない木偶になる。このまま演技という洗脳を繰り返せば、彼女にはその危険性があるわ」


コーディリアはフィッツジェラルドへと向き直った。
正面から、目の前の男を睨み上げる。
その強い眼差しは意志を問うものだった。


「こちらからすればぜひとも欲しい逸材よ。でも、今のままでは壊してしまうかもしれない。あの子には難しい話だろうからあなたに判断を委ねるわ、上司さん」


強い眼差しが、交錯する。


「――あの子をちょうだい。ただし、あの子に自我がある状態で」

「俺が彼女に意志を与えろ、と?」

「そうよ上司さん。あの子を一人の人間にしてあげて。他人の言うことに従うだけじゃない、意志を持って選択をする人間に。あの子には演劇への興味がある、それをみすみす潰したくはないし、あの才能であの子を潰したくもない。良い話だと思うわよ。あなた、あの子に何かを企んでいるんでしょう」

「なぜわかる」

「何人もの男を演じてきたもの、そのくらい手に取るようにわかる」


切れ長の目がフィッツジェラルドを見据える。
それはナイフの刃先のようだった。
嘘も誤魔化しも通用しない、眼差し。
そばで見ているだけで身が竦む。

だというのに、フィッツジェラルドはというとコーディリアに悠然と笑ってみせた。


「さすが、と言うべきか」

「是非そう言って欲しいものね。――あの子が自分で考え自分の意志で行動を選択できるようにしてあげて。それがあの子のためにもなるし、あなたの目的のためにもなる。……その様子じゃ、何をすべきかもう想像がついているんでしょう?」


囁くように言った後、コーディリアは舞台上のクリスに声をかけた。
その指示に従い、クリスが舞台から降りてくる。
近くに来た彼女へ、コーディリアは腰を曲げて視線を合わせつつ「合格よ」とウインクした。


「下積みの後、舞台の上で役者として働いてもらうわ」

「……役者に、なれるの?」

「あなたにはその素質があるわ」

「それって」


身を乗り出して、クリスはコーディリアに尋ねる。


「――わたしが、誰かが作ったお話を演じられるということ?」


その声が僅かにうわずったように聞こえたのは、気のせいか。


「勿論」


コーディリアが頷く。
目を見開き、クリスは何かを期待するように唇を引き結んだ。
初めて見る表情だ、何か演じたい作品でもあるのだろうか。


「下積みを終えたら、だけど。ともあれあなたは明日からこの劇団の一員よ。それで良いのよね、上司さん?」


コーディリアが試すようにフィッツジェラルドを見上げる。
それは是と答えることを強制していた。
強い女性だ、とスタインベックは思う。
精神的な強さだけではない。
相手を支配し使役する強さだ。


「ああ」


フィッツジェラルドが頷く。
その声に、細めた眼差しに、スタインベックは身を凍らせた。

それは、人を統べる者の気配だった。
当然コーディリアの気迫に押された男のものでもなく、ましてや子供の成長を思う男のものでもない。

この人は、何かを考えている。
何がかはわからない。
けれど。


――酷く、良くないもののような気がしてしまうのは、見間違いだと信じたかった。





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