閑話集

□その愛しさは刃のように
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夢から目が覚めた。

は、と短く息を吐き出す。
手に握り絞めていたナイフを、誰かの喉元へ突きつけていた。

無意識の、抵抗。


「……すまない」


そう言って目の前にいた人は身を引いた。
銀色ではない、束ねられた髪。
知っている人だ。
この人は敵じゃない。
わかっている。

それでも、息は荒いままだ。


「……ごめ、なさい」


途切れ途切れに言い、やっとの思いでナイフを下ろす。
震えた手がナイフを強く握って離さない。
肘を立てて上体を起こせば、体にかかっていた薄い毛布がずるりと落ちた。

周囲を見回す。
見慣れた事務所――武装探偵社だ。
黒い来客用ソファにわたしは横になっていて、ここが応接室であることに気がつく。
体にかかった毛布をぼうっと眺めて、数度瞬きをした。


「……わたし、どうしてここに」

「覚えていないのか」

「……夢を」


再び周囲を見回す。
誰かを探すわたしの目は、心配そうにこちらを見てくる人の姿を素通りする。


「……見ていた、気がする」


そうだ。
あれは、夢だ。

もうこの世界のどこにもない、穏やかで優しい、幻想だ。

だから、ここにあの人はいない。
探したって呼んだって、あの人はどこにもいない。


――そうだ。


思い出した。
だから、わたしは。

そっとそばに立つ人を窺い見る。
目が合いそうになって、逃げるように俯いた。

あの場所を、あの人を失って、いろんな場所へ渡って、そうして辿り着いたこの場所で出会った人。
この人に会いに来たんだ。
会いたくなってしまったんだ。

なのにわたしは。

ぐ、とナイフを握り締める。
慣れた重みのそれが、憎くて仕方がなかった。

どんなに願っても、望んでも。
わたしは結局、この人を拒まずにはいられないのだ。


「……帰ります」


わたしはするりとソファから立ち上がった。
相手の手がわたしを呼び止めようと伸ばされる。
それを躱して、わたしはナイフをしまってその場を立ち去ろうとする。


「おい」


躊躇いがちな声がわたしを呼ぶ。
どうしてか無視はできなかった。
しかし何かを言いかければ、きっとわたしはこの胸に押さえ込んだ全てを吐き出してしまう。
それだけは防がなくてはいけない。


「ごめんなさい」


その言葉が相手の次の言葉を遮ることなんて、わかっている。
そうでもしないと、この優しい人に縋りついてしまいそうで怖かった。


「……ちょっと、疲れてるみたいなので」

「待て」

「失礼します」


背を向けたまま歩き出す。
相手の顔を見ることなんて、できるわけがない。

探偵社を出る直前にカレンダーが目に入る。
自然と目で追ったのは、今日の日付。
あの穏やかな日々が終わった、赤色の日だ。

全身に被ったべたりとした赤いものは、あの日からずっとこの両手を汚している。
どんなに洗っても落ちない汚れがこの両手を蝕み、何かを掴もうとしてもぬるりと滑り落としてしまう。

両手を握りしめる。
誤魔化すように服の裾を巻き込み、握り込む。

ここに来たのは、赤色のあの日と今日の日付が同じだったから少し怖くなって、あの穏やかな日々すら思い出すのが怖くなって、けれどそれは今思えば子供じみた理由だ。
夜を恐れる子供のようなもの。
耐えきれば朝が来て、恐怖したことすら忘れてしまう。
だから別にここにい続ける必要はない。
だから去ろうとした。

なのに。


「人の話を聞かんか」


呆れた声で、その人は言うのだ。
わたしが身を躱したその手を再び伸ばして、わたしの腕を掴んで。


「その顔で表に出るな、うちが客を泣かせたように勘違いされるだろうが」

「……見たんですか」


顔を逸らして目元を手で覆う。
ずっと俯いていたから、見られていないと思っていた。
途端に恥ずかしさが増して、ぐいと目元を拭う。
べったりとした水滴がじわりと手のひらに張り付く。


「見えただけだ、見てはいない」

「何が違うんですか」

「じ、自主性だ」

「自主性って」


思わずといった風に言われた答えに、吹き出すように笑ってしまった。
それを聞いてか、腕を掴んでくる力が緩み、そして離れる。


「……まだ、外に出るな」

「あなた方を貶めるつもりはありませんよ」

「今与謝野先生は買い出しに出ている」

「え?」

「医務室に行け」


手に何かを掴まされる。
呆然とそれを見た。
男物のハンカチだ。


「まだ一人の方が良いだろう」


手の中に詰め込まれたハンカチから顔を上げる。
目が合う。
真っ直ぐな眼差しがわたしを射竦める。
相手を見上げるわたしが、呆然と目を見開いているわたしが、その強い眼差しに映っている。

脳の奥に麻酔薬を突き刺したような、しびれに似た高揚感が一瞬走り抜けた。


「……理由を訊かないんですか?」

「訊いたところで俺に何ができるわけでもない」


何かを押し殺すように言い、彼はふいと顔を逸らす。


「涙する理由は人それぞれだ、故に理想的な対応方法は一つではない。俺がすべきことは俺ができることをすること、本人が落ち着くよう手を貸すことだけだ」


そう言った後「わかったならさっさと行け」と背中を向けられてしまう。
真っ直ぐに自分の机に向かい、その人は仕事の続きを始めた。
それは人の泣き顔を意図せず見てしまったことに対する、一種の照れ隠しだろうか。

手の中に押し込められた男物のハンカチへと視線を落とし、几帳面に折りたたまれたそれをそっと胸に当てる。

この人は、いつもそうだ。

抱き寄せてくるようなことはしないまま、背中を向けてくる。
けれど立ち去ることもなく、この人はずっとそばにいてくれるのだ。





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