閑話集
□My dear Valentine
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「それは勿論、嬉しいに決まってるよ」
クリスと共に街を歩きながら、段ボール箱を抱えた谷崎が笑った。
「クリスちゃんが相手のことを考えて贈ってくれたものなんだもの。日付なんて関係ないよ」
「そうですわ」
谷崎の隣でナオミが大きく頷いた。
「それも、当日に知って『じゃあ来年からそうしよう』ではなくて今年から何かをしたいと思っているんですもの。健気で素敵です」
「いや、日付も気になったんですけど、別にそういう意味じゃなくて」
わたわたとクリスは両手を振って否定した。
「……わたしから何かをもらったところで、何か意味があるとは思えなくて」
「意味がないわけがないよ」
谷崎の笑顔は優しい。
「誰であっても誰かを思うことは尊いことだし、誰かのために何かをするのは無駄なことじゃない。僕はそう思うよ」
「……誰であっても?」
「僕でも、ナオミでも、クリスちゃんでも」
――わたしが、誰かへ何かを思うたびにその人を失ってきたとしても?
その言葉は言えなかった。
その代わりに、考え込むふりをして前を向く。
ショーウィンドウに今日の日付が筆記体で描かれ、ハートの形をした切り紙や風船がそこかしこで飾られている。
人々も高級菓子店の紙袋を手に往来しており、行違うたびにチョコレート独特の甘い香りがふわりと漂ってくる。
少しばかりめかし込んだ街は浮き足立っているようだった。
しかし空は既に夕日色を帯び始めている。
特別な一日は終わりを告げようとしていた。
「それにしても、これ、本当に良いの?」
これ、と谷崎が腕に抱えた段ボール箱を軽く持ち直した。
中で軽い箱達がぶつかり合う音が聞こえてくる。
クリスはにこりと笑ってみせた。
「食べませんから」
「でも、せっかくファンの人達からもらったのに……」
「わたし個人宛てのものは口にしないことにしているんです。とはいえ全てを開封して毒の類が注入されていないことが確認できたものだけをお渡ししますから、皆さんが食べる分には害はありません。要は気分の問題ですね」
一応毒耐性はあるが、それも諜報組織にいた頃につけたものだ。
意図的に毒を摂取しなくなって久しいので、安心はできない。
にこやかに言ってのけたクリスに、谷崎とナオミは浮かない顔をした。
それはプレゼントを渡してきたクリスのファンへの同情か、もしくはクリスの警戒心の高さへの憐れみか。
どちらでも良い、とクリスは気付かないふりをする。
「何にせよその数は食べ切れませんし、廃棄しようとも思っていたんです。皆さんに食べてもらえるならとても助かります。後で依頼料の見積もりください」
「いや、『もらいすぎたバレンタイン菓子を代わりに食べる』程度ならお金なんて取らないよ」
「でも技術に対して報酬は必須ですし」
「食べることに技術も何もないから……」
「じゃあそれを運んでいただいているお礼」
「僕は配達業じゃないし、劇を見に行った帰り道なだけだから……」
谷崎が困ったように眉を下げた。
ふふ、とナオミがその横顔を見つめて満足げに微笑んでいる。
「困った顔の兄様の横顔……うふふッ」
「いやいやナオミ、クリスちゃんを説得してくれるとありがたいんだけど……」
そこまで言い、谷崎は「あ」と声を上げる。
何かを思いついたようだった。
「じゃあさクリスちゃん、うちにおいでよ」
「……え?」
「まだチョコが余ってるから、それで何か作ろう。今から作れば、明日には間に合うと思うよ」
「つ、作る?」
「うん」
クリスはあの濃茶色の固い物体を思い出した。
魚の干物に似た見た目によらず、口に含むとすぐにとろけて甘苦い味が舌に広がる、チョコレートという名の食べ物。
板状のものならよく市販されているのを目にする。
作れるのか、あれ。
工場でもない、一般家庭で。
谷崎の笑顔は屈託がない。
隣のナオミも兄に似た笑顔を向けてきた。
「それは良い案ですわ! さすが兄様! クリス、ぜひいらしてくださいな」
「良いんですか……?」
「大丈夫ですわ、むしろちょうど良いですし」
「ちょうど良い?」
「ふふッ」
クリスの問いかけに、ナオミは楽しげに笑うだけだった。
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