閑話集

□My dear Valentine
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夜、街は闇色に包まれ、その暗がりに街灯や照明が穴を開けている。
車の往来も減り、空には星がちらついていた。
人の気配は少ない。
冷えた風が時折街を駆け抜けていく。

マフラーで口元を覆い、一息つく。
外気よりあたたかな吐息がふわりと白い霧となって鼻先に昇って消える。


「……さすがに夜は寒い」


呟きつつ、探偵社ビルの四階を見上げる。
明かりがついているのが遠目からでも確認できた。
どうやらまだ仕事をしているらしい。
手に下げたコンビニ袋を再度握り締め、クリスはビルの中へと入っていった。

階段を上がり、四階に辿り着く。
探偵社の名札がかかった扉を素通りし、クリスは給湯室へと向かった。
真っ暗な中目を凝らして、電気をつける。
一瞬目を刺した痛みに耐え、中へと足を踏み入れる。

谷崎に教えてもらった通り、そこには電子レンジが備えられていた。
コンビニ袋から中の物を取り出し、水場の横に置く。
牛乳、そして板状チョコレートだ。

来客用マグカップの一つを棚から拝借、その中に牛乳を注ぎ電子レンジで数分。
その間にチョコレートをある程度砕いておく。
温まったマグカップを取り出し、その中にチョコレート片を落としてティースプーンでぐるぐるとかき混ぜる。
湯気の立つ牛乳が見る間にチョコレート色に染まり始め、液体の粘度も変わっていく。
チョコレート独特の香りがふわりと給湯室に広がった。

ある程度入れたところで牛乳をさらに加えて、再度電子レンジへ。


「……チョコを作るって言うから原材料から作るのかと思ったけど、こんなに簡単でも作ったことになるんだなあ」


包丁も鍋も持ったことのないクリスに板チョコレートを切り刻んだり湯煎で溶かしたりといった動作はかなり難易度が高かった。
それを見た谷崎が提案してくれたのが、これだ。

電子レンジがチンと音を立てる。
カチャと戸を開けてそれをそっと取り出した。
白い湯気に甘みの香る、ホットチョコレートなるもの。

火傷しそうなほど熱いそれをそっと持ちつつ、クリスは給湯室から出た。
あえて足音を立てて廊下を歩き、唯一明かりの灯った部屋の扉の前へと辿り着く。
コンコンコン、と三度ノックした。


「お邪魔します」


扉を開ける。
部屋の中では予想通り驚いた様子でこちらを凝視している国木田がいた。


「……なぜ?」


言葉少なに問うその目元には隈がある。
心なしか顔色も悪い。


「二徹目だと聞いて」

「……谷崎か」

「察しが早いですね」

「今日、ナオミと観に行くと言っていたからな」


言い、国木田は再び机に向かった。
キーボードがカタカタとひっきりなしに音を立てる。
机上は冊子状のものが山積みになっており、多忙さを窺わせた。

クリスは鏡花の席の椅子に座った。
足先でちまちまと床を蹴りつつ国木田の横に移動し、パソコン画面を覗き込む。

軍警への資料のようだ。
昨日の夜に起こった件の報告書だった。
例の如く探偵社から密かに拾い集めた情報では、確か明日の早朝に軍警内で報告会が予定されていたはず。
昨日の夜勤に関する書類の早急な作成となれば徹夜は必須である。


「……なるほどそれで徹夜を」

「……察しが早いようで?」

「イヤァ何ニモワカリマセン」

「ほう?」

「……探偵社はそろそろわたし対策にセキュリティを強化すべきだと思います」

「金の無駄だ、どうせすぐに突破される」

「察しが早いようで……」


くだらないやり取りをしている間にも、国木田の手は止まらない。
手元にあるマグカップを見下ろし、少し考えた後、国木田へと目を移した。


「国木田さん」

「何だ」

「少しだけ、お時間いただけますか? すぐに帰ります」


一つため息をついた後、国木田は一行書き切ってから手を止めた。
どんなに忙しくとも苛ついていようとも、一旦はこちらの言い分を聞いてくれるのが国木田である。

眼鏡を押し上げ、国木田がこちらを向く。
何だ、と言おうとしたそれを遮って手の中のマグカップをずいと押し付けた。

むわり、と立ち昇った湯気が国木田の眼鏡を曇らせる。


「……見えん」

「……こんなに上手くいくとは思わなかった」

「わかっていないとは思えんが……俺の予定を乱す奴は誰であっても許さんぞ」

「今日はそういうわけじゃないです。安心してください」

「明日以降は」

「……明日以降のわたしに直接聞いてください」

「おい」


声に怒気が乗った国木田より先に、クリスは机の端にマグカップを置く。
レンズを拭こうと眼鏡を外した国木田が、動作の一切を止めてそれを凝視した。


「……これは?」

「ホットチョコレートだそうです。谷崎さんに教えてもらって。疲れに効くし、あたたまるし、徹夜には良いと思います。……味見をお願いしたいんですけど」

「味見?」


国木田が怪訝そうな顔でクリスを見遣ってくる。
その視線から逃げるように他所を見つつ、マフラーで口元を隠した。


「……知らなかったんです、バレンタインデーというものがどういうものなのか。劇団の方は諦めて、探偵社の皆さんにだけは明日にでも何かを贈ろうと思って……それで、給湯室に電子レンジがあるってことでホットチョコレートの作り方を教えてもらったんです。聞いたら、国木田さんが今日も社にこもってるって言うし、様子を見に行くついでに練習してみようって思って……駄目ですか?」

「いや」


首を振り、国木田は眼鏡をかけ直して机上のマグカップを見つめた。
ココアに似た見た目のそれを、ひたすらに見つめている。
その視線の意味がわからず、クリスは口を閉じた。

仕事の邪魔をして不快にさせただろうか。
しかし仕事の邪魔なら今までも散々している、今更この程度で機嫌を損ねるとも思えない。
では何だ、チョコレートが苦手だとか、そういうことか。
もしくは。


――わたしが作ったものなど、口にできないということだろうか。


だとしたら。






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