閑話集

□闇に憩いし光の花よ
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荒い呼吸。
吸気と呼気が交互に喉を出入りするたびに、ひゅう、と枯れた音が立つ。


「……ッあ……ッ」


それを聞きながら、クリスは必死に呼吸を押しとどめていた。
太宰の服をひたすらに強く掴む。

少しでも気を緩めれば異能が暴れる。
太宰はともかく、もう一人の女性を切り裂くのは望んでいない。
歯をくいしばる。
細々と息を吐き出しながら、精一杯の声で唸る。


「……無茶な、ことを……!」

「クリスちゃんなら止めてくれると思って」


平然とクリスを抱き抱えた太宰は言う。
その背には包丁が突き刺さっていた――刃先だけ。

透明な硬いものにぶつかったかのように、女性が突き立ててきた包丁は太宰のコートへ刃を埋められずにいた。
刃先だけが茶色のそれに穴を開けている。
それ以上をと必死に包丁を押し込めようとしている女性の顔は鬼のようだった。
歯をむき出し、眉を釣り上げ、目の前のものを大きく見開いた目で睨みつけている。

その顔に驚きと焦りが現れ始めたのはすぐ後だ。


「何で……刺さんない……!」


その戸惑いを聞いた直後、太宰はクリスから手を離した。
と同時にクリスは太宰の背後、正しくはそのコートの表面に張った高圧層による防御壁へと意識を向ける。
刃物を弾く方向へ圧を加えれば、包丁は女性の手から難なく離れて宙へと吹き飛んだ。


「きゃッ」


防御壁の向こうで、どた、と女性が尻餅をつく。
戦闘などに縁のない、民間人の動きだった。
ならばとクリスは手の中に隠しナイフを滑り込ませる。

仕留められる。

相手はこちらの殺意に気付いてもいない。
見えない角度からナイフを投げ上げれば、相手に気付かれることなく身動きの少ない標的の急所を的確に突くだろう。

尻をついた痛みに顔をしかめたままの女性を睨む。
一歩踏み込み、息を沈める。
腕を後方へ引き、ナイフの柄を軽く握り込む。


――投擲は叶わなかった。


「やあ、お姉さん」


ふわり、と視界いっぱいに茶色が広がる。
見慣れたコートの色。
太宰がクリスの視界を遮るように滑り込んできたのだ。


「危ないことはしちゃ駄目だよ」


それは女性に向けた言葉だったのだろうか。

は、と詰めていた息を吐く。
太宰の一言で、戦闘態勢を取っていた全身が弛緩し落ち着きを取り戻す。


「……に、よ、何よ何よ!」


女性が喚く。
ざわざわと騒ぎに気付いた通行人達が周囲を取り巻き始める。
その中から警官がこちらに駆け寄ってきたのはすぐ後のことだ。
太宰があらかじめ呼んであったのだろう、騒ぎを聞きつけて来たにしては早すぎる。


「愛されたかっただけなのに! どうしてみんな、私のことを愛してくれないの! どうして!」


女性が嗚咽と共に大声で泣き喚く。
子供のような泣き方だった。
ひとりぼっちで泣いている子供のような、誰かへと訴えるような叫び声。


――そこに、幼い少女の姿を見た気がした。


「……太宰さん」


泣きじゃくる女性が警官に連れて行かれる様子を眺めながら、クリスは呟いた。


「……愛されるって、そんなに大切なことですか」


答えはない。
首を回して、クリスはそちらへと顔を向けた。


「どうしてあの人は泣いているんですか? 愛されないなんて、大したことじゃないでしょう?」


愛されるということがどんなことかはわかっている。
それは心安らぐものだ。
自分が自分として、嘘をつくことも演じることもなくそのままの自分として生きていて良いのだという確信を、他人から与えられることだ。
けれどそんなもの、なくたって生きていける。

自分はこうして、生きている。

太宰は呆然とクリスを見ていた。
クリスが女性を見ていたように、呆然と、まるで目の前のものを信じ難いとでも言うように。


「……君は」

「普通の人というのは生きにくいものなんですね。その程度であれほど取り乱すなんて」


クリスは改めて女性の方を見た。
警官に両脇を支えられてパトカーに連れて行かれていくその背中を、見つめる。


――その一人きりの背中に見えた、亜麻色の髪の幼子の幻影を見つめる。


「クリスちゃんは、あの女性を可哀想だと思うかい?」

「わかりません。あの方は他人ですから。でも」


目を細める。
胸の中に湧き上がってきた何かに気付きたくなくて、それを押し潰すように眉根を寄せる。
それでも、その心地良いほど冷たい清水のような感情は確かにそこにあった。

それは幼い頃に知り、ある人を失うと同時に失われ、それ以降クリスの中から失せていたもの。


「……懐かしいような気がします」

「そうか」


太宰は横で呟いた。


「ということは……覚えては、いるんだね」


なら、と太宰が笑みの含んだ吐息を漏らす。
それは同情でもなく、落胆でもなかった。
不思議に思ったクリスがそちらを見上げる。

茶色のコートが風に広がる。
白い包帯が日の光に映える。
太陽を背に、太宰の口元が軽く持ち上げられる。


「まだ、間に合う」


手が伸ばされる。
頬へと触れそうになるそれを、身を引いて躱す。
宙へと留まった太宰の手は何かを掴み損ねたように指先をピクリと震わせた。
あ、とクリスはその震えを視界の隅に捉える。

避けてしまった。
何かを求めるように、何かを留めるように、敵意の欠片もないままに差し出してくれたそれを。
相手を慈しむように差し伸べてくれた、優しさを。

あの人の手に似た、指先を。


「だ、ざ」


ごめんなさい。

そう言おうとして、けれど見上げた顔に浮かんでいた表情が先程までのものとは違うことに気付いて、クリスは途切らせる。
そこにあったのは。

何かを思い出すかのような、弱い微笑み。


「……太宰さん?」


彼は――なぜ、それをこちらへと向けてくるのだろう。


「今はまだ難しいだろうけれどもね」


両手をコートのポケットに入れて、にこりと太宰は見慣れた笑みを浮かべた。
先程までそこにあった表情は微塵も残っていなかった。

消してはいけないものを、消してしまった。
だというのに。


「……太宰さんは、どうして」

「うん?」

「どうして、わたしを気にかけるんですか」


この人はいつまでも、笑みというものを忘れない。


――まるで、その表情が幸せを呼び込むものであると言っていた、あの人のように。


「そうだなあ」


太宰は笑った。


「君に笑って欲しいから、って言ったらどうする?」

「……あなたは、ウィリアムと同じことを言うんですね」

「君の友人と同じか。そうかもしれないね」


太宰の笑みは変わらない。


「きっと、君の友人が君に抱いた気持ちと同じものを、私も君に抱いているのだから」


ウィリアムと同じ。
それは、何だろうか。


「さて、行こうか。クリスちゃん」


くるりと太宰は背を向ける。
手を差し出すでもなく、しかし置いて行くわけでもない、その背中がそこにある。


「……どこへ?」

「決まっているじゃないか。デートの続き。今度はどこに行こうか」

「目的は達成しました。契約は終了したはずです」

「契約? 何のことだろうねえ」


くいと太宰は口端を持ち上げる。
今度のそれは、何かを企むような笑みだ。
それを見、そしてその笑みの奥にある眼差し――優しい土色を思い起こさせるその鳶色に、クリスは目を見開き、そして。


「……わたしをサボリの口実にしないでいただきたいですね」


微笑んだ。


「サボリだなんて人聞きの悪い」

「事実ですから」

「サボリじゃなくてデートだよ。ほら、行こう」


す、と太宰が片手を前方に差し出す。
導くようなその仕草に従い、クリスは太宰の横へと進み出た。
共に歩き始める。
いつもは国木田と共に歩く街を、太宰と共に歩き始める。

妙な気分だ。


「今日だけですよ」

「また一緒にいたくなるような一日にしてみせよう」

「結構です」

「つれないなあ……」

「あははッ」


太宰が苦笑いをする。
その表情に、クリスは満面の笑顔を返した。





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