幕間 -林檎編-

□君の名を呼ぶ
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太宰は一人、酒場のカウンターに座っていた。
くぐもったトランペットが奏でる軽やかな音楽を背に、グラスを持ち上げる。


「今日は何に乾杯する?」


声をかけたのは隣の席、手のつけられていない酒が添えられた空席。
かつてそこにいた友人に、彼が言うであろう言葉に、太宰は答える。


「安吾は来ないよ」


それはあの日々の再演。
平凡で、楽しく、永遠を感じさせた友との日常。
唐突に計画的に壊されたその日々は、今も太宰の中に息づいている。

グラスを置き、目の前に置いてある物を見つめる。
白と赤のカプセルと、白色で筒状の錠剤ケース。
その二つを手のひらに乗せ、転がす。

薬と毒の差は、飲んだ者に与えられる利害だけだ。
利であれば薬であり、害であれば毒である。
そこに生死は関与しない。
生を与えるものの全てが薬というわけではなく、死を与えるものの全てが毒というわけではない。

果たしてこれは薬か、毒か。


「……織田作、君の言うことは正しい。人を救う方が確かに素敵だよ」


――人を救う側になれ。


あの日、血と硝煙と煙草の臭いが充満する場所で、彼は太宰へ言った。
あの言葉を違えることなく覚えている。
それは導きだった。
光だった。
迷い子を誘う優しい手だった。
太宰にとって彼の言葉は道そのものだったのだ。

例えそれが仕組まれた道だったとしても。
彼も自分も、誰かの手のひらの上で脚本通りに演じただけだとしても。

それでも、彼の言葉は太宰にとって真実だった。

だから、付け加えた。


「……生きていくのなら、ね」


血を思わせる赤に半分を染めたカプセルを口に運ぶ。
常温で無機質な表面が唇に張り付いてくる。
舐め取るように口内へと引きずり込んだ。
無味なそれを軽く舌の上に転がしつつ、手の中に残ったケースをつまみ上げて光に透かす。
軽く振ってみればカラカラと硬い小さな物が音を立てた。
これを渡してきた少女を思う。

あの青を思い出す。
真実に気付きながらも、おそらくは探偵社の皆と共に理不尽に立ち向かうのであろう異国の少女の、拭いきれない不信を押し隠した眼差しを。


――今度、あなたのご友人についてお話を聞かせてください。


その青がようやく緩んだのは、その一言を告げた時。
それは何かを言おうとして、そして止めた後の言葉だった。
きっと彼女は聞きだそうとしたのだ、太宰のこれからの行動を、その真意を。

そして、言い換えた。
太宰が何も答えないことを、彼女は察した。

友人。
彼女にも自分にも、心の中に留まり続ける時間があり、そこに佇み続ける誰かがいる。

自分にとっての織田作も彼女にとっての彼も、確かに光だった。
彼らに導かれて、自分も彼女もここにいる。
それが誰かの意図だったとしても、何物にも勝る大切な存在であることには変わりない。

太宰はそう、思っている。
彼女もまた、同じことを考えるに違いない。
それがいつかはわからないけれど、いつか、必ず。

彼女はまだ気付いていない。

席を立つ。
舞台は既に幕を上げている、行かなければ。


「それじゃあ行くよ、織田作」


どこへ、とは告げず、太宰はカウンターへ背を向けた。
そのまま店を出る。
カラン、と扉のベルが太宰を送り出すように鳴り響いた。

カウンターの上、誰が飲むこともないグラスの酒が、透いた琥珀色に氷を浮かべている。




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