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□ 序幕 最期のキオク
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序幕 最期のキオク
生き急ぐように、桜が咲いている。たった一株だというのに、風が吹けば桜吹雪が巻き起こるほどに。
花弁がこちらまで舞ってくるので、手を差し出してみる。掌に降り立った花弁は、可愛らしい、桃色のハート型をしている。
「――――」
ふと、名前を呼ばれた気がして、後ろを振り返る。
背後の障子は開け放たれ、畳張りの執務室が覗ける。まだ処理前の書類が文机に積まれ、その周辺にまで桜花弁が入り込んでいた。
ああ、仕事を再開する前に掃除しなければ――――頭の隅で思っていると。
すると、その桜花弁を、白い足袋が踏みしめた。
“彼”だ。
その姿は、墨をぶち撒いたように塗りつぶされている。
だのに、その表情や仕草は、手に取るようにわかった。
彼は、平生の薄ら笑みを湛えて、すぐそばまでやってくる。
「邯コ鮗励□縺ュ縺」
声もまた、奇妙である。
人の唸るような声が幾重に重なり、さらにそこに、虫や鳥の声が混じる。塗りつぶされた彼の口から紡がれるのは、耳障りで不快な、ただの雑音だった。
「縺壹縺ィ縲√%縺@縺ヲ縺i繧後繧峨縺縺縺代縺ュ」
声とも言えぬ、意味を成さない不協和音。
けれど、私にはそれが言語に聞こえるらしい。
「そう、ですね。そうであれば、どれほど……」
久方ぶりに発した私の声は、あまりにも弱々しかった。
もしかしたら、私は泣いているのかもしれない。そう思うほどに、声が震えている。
「ああ……だめ。だめだ。こんなのは、」
自分で自分を励ますようにそう呟いて、頬を手の甲で拭う。案の定、指先が濡れた。
「こんな、情けない姿を晒すつもりは、なかったのですが」
必死に言い訳をしながら、とめどない涙をどうにか治めようと何度も拭う。
私の涙が治まるまで、“彼”は何かを言うわけもなくそこにいた。彼にしては珍しく、私のことを案じてくれていたのかもしれない。
「…………大丈夫、大丈夫です。もう、平気ですから」
残りの涙を無理矢理拭い取って、私は投げ出していた足をあげる。
立ち上がろうとして、ふらつく。危うく、縁側の下へ落ちてしまうところだった。
足に力を込めて、踏み止まる。
「刀が折れようとも、私は戦い続けなければ」
声に出して、己に言い聞かせる。
いつまでも泣いているわけにはいかなかった。
私には、責務がある。戦うという責務が。
戦わなければ。
泣いていては、いけない。
巫女服の袖で最後にもう一度目を擦り、口角を持ち上げる。今まで通りの、そつない微笑を作る。
泣き止むまでそばにいてくれた“彼”へ礼を告げようと、振り返る。
そのとき、ひときわに強く風が吹いた。
視界を覆うほどに、真っ赤な桜吹雪が飛沫く。
赤い桜吹雪の向こう側で、彼が、刀を抜いていた。
刀には、赤い花弁がまとわりついている。刀を振り抜いた勢いで、花弁が宙を舞う。
赤い。赤い。桜吹雪。
否。違う。
花弁じゃない。
桜じゃない。
この赤は、私の――――。
「……、…………」
声が出せない。
咄嗟に喉を押さえる。
ぬるりとした生暖かい感触が、手に触れた。
痛みは不思議と感じない。ただ、呼吸が出来ない。息苦しさを感じるよりも先に、脚から力が抜けた。
膝から崩れ落ちるも、彼に抱き止められる。同時に、どっ、と胸を殴られたような感覚を覚えた。
視線を落とす。
胸を、刀で貫かれていた。刀身はすっかり私の体内に埋まり、鍔に乳房を押しつぶされている。徐々に、そこから巫女服が血に染まっていく。
たちまち、喉奥から苦味と鉄臭いものがこみあげて、たまらず吐きだす。血だ。すでに赤く染まっていた私の巫女服はもちろん、私を抱える彼の戦装束も汚してしまった。
一度吐きだしても次から次へと血がこみあげてきて、何度も吐きだす。
気管か食道の他に、太い血管も一緒に傷つけたのだろう。おまけに喉も斬られた。失血と、呼吸困難。
これは、助からないな。
他人事のように、ぼんやりと思考する。
おそろしいほどに、私は冷静だった。
本当に自分は死ぬのだろうか。奇妙な感覚だ。
「縺ゅk縺」
彼が、私を呼ぶ。
視線をあげようとするも、視界が震える。焦点が合わない。
あやふやに歪む視界で、それでも、彼を見上げる。
彼の姿を塗りつぶしていた墨は、いつの間にか晴れていた。獲物を狙う蛇のような目が、じっとこちらを見つめている。
やがて、視界が闇に閉ざされていく。
闇のなかで、彼の目だけが、ずっと、不気味な光を灯していた。侮蔑の感情を灯した、冷淡な目だった。
嗚呼。
それでも、貴方は、こんなときにも笑うのか、なんて、私は