本棚

□ 序幕 最期のキオク
1ページ/1ページ

序幕 最期のキオク  

 生き急ぐように、桜が咲いている。たった一株だというのに、風が吹けば桜吹雪が巻き起こるほどに。

 花弁がこちらまで舞ってくるので、手を差し出してみる。掌に降り立った花弁は、可愛らしい、桃色のハート型をしている。



「――――」



 ふと、名前を呼ばれた気がして、後ろを振り返る。

 背後の障子は開け放たれ、畳張りの執務室が覗ける。まだ処理前の書類が文机に積まれ、その周辺にまで桜花弁が入り込んでいた。
 ああ、仕事を再開する前に掃除しなければ――――頭の隅で思っていると。

 すると、その桜花弁を、白い足袋が踏みしめた。

 “彼”だ。

 その姿は、墨をぶち撒いたように塗りつぶされている。
 だのに、その表情や仕草は、手に取るようにわかった。

 彼は、平生の薄ら笑みを湛えて、すぐそばまでやってくる。



「邯コ鮗励□縺ュ縺」



 声もまた、奇妙である。
 人の唸るような声が幾重に重なり、さらにそこに、虫や鳥の声が混じる。塗りつぶされた彼の口から紡がれるのは、耳障りで不快な、ただの雑音だった。



「縺壹縺ィ縲√%縺@縺ヲ縺i繧後繧峨縺縺縺代縺ュ」



 声とも言えぬ、意味を成さない不協和音。

 けれど、私にはそれが言語に聞こえるらしい。



「そう、ですね。そうであれば、どれほど……」



 久方ぶりに発した私の声は、あまりにも弱々しかった。
 もしかしたら、私は泣いているのかもしれない。そう思うほどに、声が震えている。



「ああ……だめ。だめだ。こんなのは、」



 自分で自分を励ますようにそう呟いて、頬を手の甲で拭う。案の定、指先が濡れた。



「こんな、情けない姿を晒すつもりは、なかったのですが」



 必死に言い訳をしながら、とめどない涙をどうにか治めようと何度も拭う。

 私の涙が治まるまで、“彼”は何かを言うわけもなくそこにいた。彼にしては珍しく、私のことを案じてくれていたのかもしれない。



「…………大丈夫、大丈夫です。もう、平気ですから」



 残りの涙を無理矢理拭い取って、私は投げ出していた足をあげる。
 立ち上がろうとして、ふらつく。危うく、縁側の下へ落ちてしまうところだった。
 足に力を込めて、踏み止まる。



「刀が折れようとも、私は戦い続けなければ」



 声に出して、己に言い聞かせる。

 いつまでも泣いているわけにはいかなかった。

 私には、責務がある。戦うという責務が。

 戦わなければ。
 泣いていては、いけない。

 巫女服の袖で最後にもう一度目を擦り、口角を持ち上げる。今まで通りの、そつない微笑を作る。
 泣き止むまでそばにいてくれた“彼”へ礼を告げようと、振り返る。

 そのとき、ひときわに強く風が吹いた。
 視界を覆うほどに、真っ赤な桜吹雪が飛沫く。

 赤い桜吹雪の向こう側で、彼が、刀を抜いていた。
 刀には、赤い花弁がまとわりついている。刀を振り抜いた勢いで、花弁が宙を舞う。

 赤い。赤い。桜吹雪。

 否。違う。

 花弁じゃない。
 桜じゃない。

 この赤は、私の――――。



「……、…………」



 声が出せない。

 咄嗟に喉を押さえる。
 ぬるりとした生暖かい感触が、手に触れた。

 痛みは不思議と感じない。ただ、呼吸が出来ない。息苦しさを感じるよりも先に、脚から力が抜けた。

 膝から崩れ落ちるも、彼に抱き止められる。同時に、どっ、と胸を殴られたような感覚を覚えた。

 視線を落とす。
 胸を、刀で貫かれていた。刀身はすっかり私の体内に埋まり、鍔に乳房を押しつぶされている。徐々に、そこから巫女服が血に染まっていく。

 たちまち、喉奥から苦味と鉄臭いものがこみあげて、たまらず吐きだす。血だ。すでに赤く染まっていた私の巫女服はもちろん、私を抱える彼の戦装束も汚してしまった。
 一度吐きだしても次から次へと血がこみあげてきて、何度も吐きだす。

 気管か食道の他に、太い血管も一緒に傷つけたのだろう。おまけに喉も斬られた。失血と、呼吸困難。

 これは、助からないな。

 他人事のように、ぼんやりと思考する。
 おそろしいほどに、私は冷静だった。

 本当に自分は死ぬのだろうか。奇妙な感覚だ。



「縺ゅk縺」



 彼が、私を呼ぶ。

 視線をあげようとするも、視界が震える。焦点が合わない。
 あやふやに歪む視界で、それでも、彼を見上げる。

 彼の姿を塗りつぶしていた墨は、いつの間にか晴れていた。獲物を狙う蛇のような目が、じっとこちらを見つめている。

 やがて、視界が闇に閉ざされていく。

 闇のなかで、彼の目だけが、ずっと、不気味な光を灯していた。侮蔑の感情を灯した、冷淡な目だった。

 嗚呼。
 それでも、貴方は、こんなときにも笑うのか、なんて、私は



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ