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□第二幕 厄災のバケモノ
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『おや。見慣れないものをいじっているね』
陽が沈もうとも、うだるほどの暑さ。
たしか、これは――――十三歳だか、十四歳だかだったと思う。
からん、と涼し気な氷の音がして、私は突っ伏していたテーブルから顔を上げる。
締め切っていると蒸して暑いからと開け放たれた障子から、星空が見えた。
その少し手前へ焦点を合わせると、目立つ紫色が見えた。
縁側を通って部屋に入ってきたのは、二十半ばの男。捲りあげた和装の袖から覗く腕はほどよく筋肉がついており、屈強さが伺える。ただ、その腕には白い包帯が巻かれていた。
男は手にしていたのは、おぼんだ。ジュースが注がれた氷いっぱいのグラスがのっている。
「ああっ、歌仙、助かります……! 危うく干からびかけるところでした……!」
『この暑さではねえ』
歌仙は苦笑しながら、私から少し離れたところにグラスを置く。テーブルに広げられた書類や資料、参考書を濡らさないための配慮だった。
さっそく、ジュースで喉を潤す。
冷たい。うまい。生き返る。
すると歌仙がわずかに身をかがめて、テーブルに置かれたものを興味深そうに見つめる。
四角い板に、金属のレバーやネジが複雑に組み合わされた機械だった。
「電鍵ですね。モールス信号を出力する装置ですよ」
『ああ、知っているとも。しかし、随分古風な物を持ち出してきたものだ』
「時代錯誤ですよねえ。けれど、単純で初歩的な暗号だからこそ、非常時では使われる場面も多いそうです」
時は2200年。
この長き歴史のうちに進んだ科学は、形無き神や精霊に形を与えた。積み上げられた学問は、神秘のベールを解いてその正体を顕にした。
そうして人類は、科学と知識によって、空高く見上げていたはずの神を、今では戦争の兵器として制御している。
そんな進んだ時代だというに、三百年以上前の技術に頼っていると考えると、奇妙な気分になった。
「来週、軍学校の授業で、暗号分野の考査があるんです。なのでこうして勉強しているわけなんですが、そのことを他の方々に話しましたら、あれよあれよという間に、参考書やら実物の資料やらが集まってしまい……」
『なるほど。勉強好きなきみのために、みなが協力した結果というわけか。この大量の書物の山は』
テーブルに広げられた資料、書類、参考書。その奥にこれでもかと積み上げられた、古ぼけた書物から最新のカラー印刷が施された本まで、様々な本、本、本。この書物の山の一角に、ちょこんと、錆びた電鍵がのせられていた。
これらはすべて、暗号に関する資料と歴史書だった。
何度見ても、気が遠くなる。うへえと思わず呻きかけた。
しかし、神の御前であるぞと己を戒めて、口を引き結ぶ。
「勉強好き……? いったい、誰がそのような根も葉もない噂を広めたのですか」
『勤勉な主を持てて、僕は家臣として鼻が高いよ』
「わたくしは、勤勉でも勉強好きでもございませんが…………まあ、そのように言って頂けるほどには、皆様の主としてふさわしい審神者であれていると思うことにしましょう」
グラスを置き、開いていた参考書に目を落とす。
すると、斜め後ろから咳払いが聞こえてくる。
『勤勉なのはきみの美点だが…………あまり、根を詰めてはいけないよ』
「お気遣いありがとうございます。ですが、考査で良い成績を出し続ければ、それだけ早く、軍学校を卒業できますから」
当時、私は軍学校に通っていた。
審神者には、大きくわけて二種類いる。民間出身の審神者と、軍属出身の審神者だ。
私は民間出身に該当する。
「軍学校さえ卒業できれば、正規の軍人になれる。軍人にさえなれれば、今まで支給されていたよりも良質な札や資材……他にも様々な待遇が受けられますからね」
民間出身の審神者と軍属の審神者は、待遇に大きく違いがあった。
これは、我が国が古くから掲げている「政教分離」の思想によるためだった。
政教分離とは、政治と宗教は区分されるべきという思想だ。
宗教は、人の心を強く動かす。政治と宗教が癒着することで、特定の政権が宗教を利用して国民の支持を得たり、反対に、特定の宗教関係者が宗教の力を使って政治に介入するといったことを、防ぐためのものだった。
審神者は神に仕える者、つまり宗教関係者だ。これが、国防のためとはいえ国の中枢に関わることは、宗教関係者からも国の要人からも反感を買った。
この解消のため、この戦争においての全権を担っていた国防機関《時の政府》は、審神者を部外者として扱った。
審神者を軍人として徴用するのではなく、あくまでも「国が審神者に助力を乞い、審神者側がこれに協力している」とすることにしたのだ。
国防に協力している手前、支援はもちろんある。けれどその内容は、軍属の――――《時の政府》に属する審神者と比べれば幾分か心許ないものだった。
軍属の審神者への支援が手厚くなるのは、自明だ。部外者の協力者よりも、国に仕える軍人のほうがなにかと動かしやすいからだ。
そもそも、なぜ軍属の審神者なんて存在がいるのかと言えば、それは《時の政府》が、審神者としての才能がある者ならば誰彼構わず審神者として徴用していたからだった。神職の家系はもちろんのこと、まったく関係のない一般人、そして元より国に仕えていた自衛官や軍人さえ、適性さえあれば審神者として採用していた。
このため、そもそも元から国に仕えていた審神者、というものが出てきてしまったのだ。
困ったことに、この待遇差ゆえに、民間出身の審神者がその任期中に軍人の職位を希望する例が増えた。命を賭けて戦っている以上、より高い給金や支援が受けられる軍人になろうとするのは、当然だった。
皮肉なことに、神職家系出身者のなかからも、軍人になる者が出ていた。
正直、命を懸けているこんな現状で、政教分離だなんだとくだらない思想を唱えていられる奴は、よほどのバカだと思う。もしくは、国からの支援など要らないほど有能で尚且つ権力や金に興味のない、根っからの神職ぐらいだ。
私には、そこまでの才能はない。孔子のように戦局を読む才も、使役した神々の能力を最大限に引き出せる神職の才もない。
私にあるのは、刀に宿った神を顕現する、審神者としての必要最低限の才能だけ。
私は凡庸、もしくはそれ以下の審神者だ。
けれども審神者として生きていくしかない以上、私は、利用できるものは利用していくしかなかった。
「少しでも戦を有利に運べるならば、軍人としての地位を得るのは早いほうが良いでしょう」
『だが、きみが倒れるようなことがあっては、元も子もない』
いささか大袈裟な歌仙の言葉に、私は思わず振り返る。いつの間にか歌仙は畳に正座し、じっと、強い視線をこちらに向けている。
『くまを作ってまで机に向かっている様を見れば、心配もする。それも連日だ。軍学校に通い始めてから、きみは動き過ぎだ』
この刀の神様は、神様だというのに、たかが人間の私なんかにこんなに親身になってくださる。時として彼が神であると忘れてしまうくらいに、彼は、私の思い描く神とはかけ離れていた。